こんにちは

ご無沙汰していました。

大学生活がはじまり早2ヶ月が過ぎました。早いものです。

3月に、入学試験が終わったと思ったら、学力定着試験?とドタバタした最中に近況報告だけしてました。

その後は心機一転。18歳のみんなと机をならべるオジさん登場の毎日を過ごしています。

大学生活について、一言だけ書くと

 

「今の大学生、勉強たいへんだわ!(~.~; 」

 

さて、そんな1万人に1人もいないだろう現役社会人退職後大学生生活は、ブログの話題ではないのでないので本題へ。

 

今回は、「向島」について書こうと思う。

前回は、僕の育った町が浅草寺の観音様の裏手、今戸で、その今戸・橋場を『#36〜38 育った町のむかし風景とは』で紹介してみました。

 

で、なぜ向島なのか。

浅草のことを書くなら、浅草を書けばいいじゃないと思うのですがね、それは天動説というもの。

浅草の町は、もともと浅草寺も土師中知・檜前浜成・武成家族の豊漁を祈る御本尊様的信仰から。

豊島郷の近在漁業民や農民の信仰の対象が一大転換期を迎えたのは、平公雅という人のおかげ。

平公雅なくして、浅草寺も浅草もこんにちはないのですが、下総。。。向島

 

関東は現在、首都東京が中心ですが、平安時代は北関東が中心に歴史は動きます。

天皇の息子である親王のみが太守となれる国が全国に3国だけありますが、それが、常陸国(茨城県東部と福島県の南部)、上野国(群馬県)、上総国(千葉県)の親王任国。また、新皇を名乗った平将門が都を置いたのは、現在の下野国(千葉県北部茨城県西部)。武蔵国は、五畿七道のなかでも、当初は東山道に入っていたが枝道の終点だったし、のちに東海道に編纂し直されるが、当初は暴れ川だった利根川や荒川などのせいで東京の現在の海岸線付近の区や地域は遥かな漁村。関東の開けた土地といえば、埼玉県の川越や秩父など山側の土地だったことが容易に想像できる。

 

つまり、浅草寺から周りを見回すではなく、むしろ、下総国の国府(現在の千葉県国府台)側から浅草を眺める人口のほうが圧倒的に多かったのだろうと思う。

千葉県国府台というのは、フーテンの寅さんでお馴染み葛飾柴又の対岸にあり、演歌「矢切の渡し」の矢切や里見公園などがある場所です。

 

そうすると、東から国府台⇒小岩⇒立石⇒向島ときて、船で隅田川を渡って石浜(橋場)でやっと昔の武蔵国入するわけです。浅草は、そこから隅田川沿いに南下。

 

江戸っ子というか浅草っ子は、川の向こうにあるから向島。っていうけれど、僕は間違いなく室町時代は武蔵国の東側より下総国の西側(国府がある)の方が格が上だったと思う。いや、例え、格が上、下でなくとも武蔵国にとって中心地は埼玉県・東京都西部の武蔵野台地側なので荒川下流域の東京側は漁村か湿地帯だっただろう。

だろうだろう、と僕の予測では信用度が低いと思うので、資料を載せよう。

駒沢大学の「地層と地形」という資料に、東京23区の奈良時代〜平安時代の遺跡の分布を当時の地形図に載せた研究があるが、これを見ると、古墳の分布は、上野の山・本郷台地と、日比谷入江(今の丸の内)の岸辺、それに、品川・浅草とまばらかつ集中している。よく見てほしいのは図上右上から東京駅・新橋に至る白塗り低地には遺跡は、わずかに、右隅近くのグレーの島上に□▲しかない。このグレーの島が、隅田川が運んで堆積した土によりわずかに他の土地より高い微高地とよぼれる上にある浅草・鳥越地域。

 

で、向島。

そもそも、おかしくありませんか、内陸地なのに向島

浅草の河を挟んだむこう墨田区の神社は、牛嶋神社。

スカイツリーのある曳舟には、京島がある。その東の八広には、町名は消えてしまったが、学校名に寺島が残る。

 

今述べたのは、墨田区のほぼ中央を横切る北十間川の北側半分部分。ここは、反対の南半分部分(江戸時代から本所と呼ばれている)とは、明確な違いがある。

それは、南の本所側は碁盤の目の街区割だが、北半分の向島側は、道が曲がりくねっていて、行き止まりも異常に多いということ。

 

なかなかありませんよ、こんな町。

ブラタモリ来ました?

タモリ倶楽部は来てそうな気がするんだけど。

 

さて、それはなんでなんだ。

どうして、内陸なのに○島という名前の地名が多いんだ?

という話。

練馬区とかだと、答えは、農地の間を縫う農道や、用水路を道路にしたから。

なんて答えになるんだけど、向島は、はて?

 

おっと、2000字 近くも書いてしまった。

先日、提出した『女帝論』のレポートと同じだ。

長すぎると、また、コマ目にアップすることができなくなるので、次回、向島を探るの続きを書きます。