#41で、水屋は水屋でも、冷や水売を紹介しました。

 

(水売 鈴木春信 明和2(1765)年 東京国立博物館)

 

自販機をイメージするような冷や水売(水屋)から、今回は、現在で言えばオフィスや家庭に月イチくらいで納品されたりするミネラルウォーター・サーバー(給水器)をイメージするような水売(水屋)を紹介します。

 

東京には、江戸時代に作られた上水道がいくつかあり、聞き馴染みのあるものは神田上水と玉川上水でしょうか。

豊臣秀吉に移封された徳川家康は、うろ覚えであるが1万人に満たない供を連れて後北条氏が降伏した江戸城に入府してきたが、江戸城は後北条氏の難攻不落の居城 小田原城とは比べ物にならない貧相な城だったようです。

「関東御入国のころは、江戸御城は御本丸の外に二つの御丸御座候。(中略)

江戸は遠山居城にて、いかにも鹿想、町家なども茅葺の家百ばかりも有かなしのてい、城はかたちばかりにして、城のやうにもこれなく。」(見聞集)とすると、そもそも住む場所から作らなければならなかったわけです。

 

秀吉の傘下、一有力大名として移封された時点、江戸は日比谷入江に面した湊(みなと)町で、城塞都市ではなかったことがわかります。それから征夷大将軍となり江戸幕府を開き、江戸に諸藩の大名に屋敷を構えさせる都市に急ピッチで計画都市づくりがされていくわけですが、ここに定住するためには、土地の開発と共に飲料水の確保が必要だった。で、上水道となるわけです。

 

ところが、僕の認識だと、この次に来る段階は、現在の水道で、蛇口をひねると、お水がでる。

なんですが、実は、江戸中どこでも、水が上水道から得られたわけでもないし、井戸もあった。

が、それなら、給水器を売る水屋の出番は無い。

 

だから、「水を買って飲むなんて、ありえない。水は、水道水で十分」という誤認につながっていたのですが。

 

実は、江戸で上水道の水や井戸の水を飲めなかった一大地域がある。

それは本所・深川。

 

墨田区の本所や江東区の深川は、江戸時代爆発的な人口増加と、明暦の大火(明暦3年(1657年)など災害復興などによる市街地整備の新興居住地です。深川はまだ臨海地区の趣を保っているかもしれませんが、もはや内陸地化している本所も低湿地帯を埋め立て整備した町とは、今ではなかなか想像できない。

 

(出典:学研のHP

https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu1.html )

この地図が一番わかり易いので説明文ともども転載させていただきました

 

東京都の西の市部から江戸城側に向かって流れてくる神田上水・玉川上水は、江戸城までくると其の先は、隅田川によって行き止まってしまいます。本所・深川のある墨田区江東区は隅田川よりさらに東側のため上水の恩恵を直接受けられませんでした。

 

学研のHPの地図に本所・深川の地域『亀有上水(1659)』と破線で記載されて欄外に、1722年に廃止されたと書いてあるが、『水道公論 1999年6月号のコラム「江戸・東京の水船」に詳しく下記の通り載っていた。

 

「亀有上水は万治2年に(1659)に開設されたが、給水区域が水源から遠いため、送水不能になることが多く、また末端部では上水に潮気がさすことがあって、亨保7年(1722年)には廃止され、その後の給水は水船に頼ることが多かった。」

 

本所・深川といえば、松平はじめ諸藩の中屋敷や下屋敷、蔵屋敷などがあり、幕臣も多く住む地域です。

忠臣蔵の敵役で高家の吉良義央の屋敷は、松の廊下事件が起きた時は現在の千代田区呉服橋にあったが、事件後、転居して、大石内蔵助らに討ち入りされた本所(両国の回向院の東側)に転居していた。その、ほんの目と鼻の先で、勝海舟は生れています。

本所は料亭の多い町。また、深川は深川不動尊の門前町が岡場所として栄えた町です。時代小説がお好きな方は、辰巳芸者とか耳馴染みがよいことでしょう。

 

ここまで書くと、寒村に飲料水が無いというイメージではなく、飲食に関して一大繁華街にもかかわらず、飲料に適した水を「井戸からも水道からも得がたい土地」ですね。

 

そこで、登場するビジネスが、水を運ぶ「水屋」です。

季節商売の茶碗一杯いくらの冷や水売ではなく、長屋や料理屋などに月単位で水を納品して歩く商売。

(この写真の出典は不明)

 

その水屋が、一人ひとりが水桶を運ぶなら、その水屋に供給する水のみなもとは、江戸幕府が指定する場所から水を汲んで運ぶ水船給水業者だったのです。引き続き『水道公論から参照しよう。

 

「上水の余水は、誰でも何処でも利用することができるものではなく、江戸市中で許されていたのは2ヶ所だけだった。

 すなわち、神田・玉川上水の余水は、呉服橋門内の銭瓶橋の左右(神田上水)と一石橋の左右(玉川上水)で溢れ出ており、これを「水船」「水伝馬」という船に積んで、本所・深川方面に運んで給水した。

 水船業者には町奉行から鑑札が渡されており、鑑札のないものはみだりに余水を汲み取ることが許されず、営業には上納金を治めることになっていた。」

*銭瓶橋、一石橋は、それぞれ「ぜにがめばし」「いっこくばし」と呼ぶ

 

また、明治はどうだったのかが中央区立京橋図書館発行 郷土室だより 第156号に、こんな風に記載されています。

「明治19(1886)年2月には水船営業規則が公布されて、一石橋際ほか四ヶ所が上水汲みとり場所(※)に指定されています。

(※)上水吐水汲みとり

 江戸時代、神田上水や玉川上水が届かない本所・深川地区では、玉川上水の余水を飲水として購入していた。銭瓶橋の左右と一石橋左右の余水を利用。東京府は明治19年に規則を定めて、銭瓶橋際・一石橋際・蛎殻町三丁目10番地先、比丘尼橋際、南小田原町四丁目2番地先の五ヶ所を指定。東京府の統計書によると、水船は明治23年当時がピークで、深川区で96隻を数える。」

長さは、2丈3・4尺(1丈=10尺, 1尺≒30cm)だから約7mと、バスくらいかな。

これで、オイル・タンカーよろしく、給水し輸送していたんです。

 

さて、銭瓶橋も一石橋も、都内在住者ですら皆目検討がつかない場所だと思います。

東京名所散策にご興味がある人だと、一石橋は「迷子しらせ石標」がある場所と言えば思い浮かぶでしょう。

現在の一番近くて有名なランドマークは、日銀 本店です。

 

で、僕は、この水船が描きこまれた浮世絵を探したのですが、残念ながらみつかっていません。

いや、「水船が描きこまれた浮世絵」と分類している浮世絵はないので(笑)、僕が探した中では見つけられていません。

 

ですが、偶然写真を見つけたので自慢します。

(一石橋 昭和5年)

手前に見える橋が一石橋です。

この写真左手の川に接岸されている船が見えます。

これが送水管から水を受けている水船、水船のさらに画面を外れ左奥に銭瓶橋がありました。

画面右上の重厚な建物が日銀で、その正面中央から左に横断するのが常盤橋です。

 

この写真が撮影された時期より前の明治期後半に加圧水流方式を採用したことにより本所・深川にも水道管が通ります。

ところが、大正12(1923)年9月1日に関東大震災が発生し、水道管が損傷し再び水が飲めない自体が発生しました。

此の際に、廃業して既に数十年が立っていた元水船業者が給水をいち早く再開したことで本所・深川地区の人々は命を永らえることができたそうです。

そして、この昭和5年(1930)年は、それから7年経過していますが、同じアングルで別の写真がありそれにつけられたタイトルが「一石橋 震災復興」でした。写真家は震災復興をテーマに撮影していたということから、まだまだ町の人々の意識も生活も震災復興途上だったのでしょう。それが「水船の存在」に現れていると僕は思います。

ほぼ同じ冬の雪の時期で似たようなアングルですが一石橋のアーチの見え方の角度が違います。

ここにも、川の上に水船が見えます。

前出の水船のイラストでは、船に天井はありませんでしたが、実際には水槽の上には板で覆いをしていたようで、この白黒写真は蓋で覆われているように見えます。

 

(一石橋 震災復興)

 

飲料水を上水や井戸から飲めないことから、各家庭に売って歩く水屋に頼らざるを得なかった土地というのは、なにも江戸の本所・深川に限ったことではなく、この話題を調べていたら、愛知県、長崎県や徳島県の郷土記事や写真を見つけることができました。

「ミネラルウォーター? 水を買って飲むだなんてありえない!」

というのは、20世紀になってからの日本に根付いた感覚だったんですね。

 

さて、『お茶屋、水茶屋、水屋』シリーズで書き起こしてきましたが、いかがだったでしょうか。

 

今年は、この記事を最後の投稿にいたします。

歴史的な大寒波の到来といわれています。

風邪や、雪による交通事故などとは縁遠く良い年をお迎えください。

 

筆者