*1 2018.12.21 写真の出典元が判明したので追記しました。

お茶屋、水茶屋と続いて、いよいよ佳境に。

 

水茶屋が佳境だと思っていらっしゃいました?

そうでしょう。

僕も、当時の水茶屋の一服一銭の値段が、幕末、ガールズ・バーならぬ水茶屋でいくらまで跳ね上がったのか興味あります。

 

 

(笠森お仙と柳屋お藤 鈴木春信 ボストン美術館)*1

 

また江戸時代は、「公序良俗は身なりの乱れから!」

生活指導教諭のメガネがキラリ✨

的な発想の原初なのかと思うように、身分別で身なり制限事項が髷の形から帯の結び方、和服の柄のみか素材までも事細かく制定され、身分格差管理社会を作ったのです。

当然、AKBより200年前の元祖「会えるアイドル」お茶汲娘が、「わたしもかわいくなりたい!」となるのは当然。

平民の茶汲娘が「美人・可愛らしい」の持って生まれた「容貌や仕草、話し方」以上の差別化戦略として、衣装やヘアースタイル、装身具を派手にエスカレートしていくのを「ハイっ!そこ!とまりなさい!スカートの丈 膝上チェック!」的に時々、奉行所からお達しがでて、出動、一斉検挙。酷いと、営業停止、財産没収と取り締まられました。

そんな厳しい風俗背景が、江戸の縦縞模様を深化させたデザインを生んだり、お茶汲娘の前掛けデザインに進化を及ぼしたり、果ては明治に下田歌子女史により女学生向けにデザインされた女袴が憧れになる下地となっていると考えられています。

 

また、収入という面でも、幕臣 勝海舟ですら海軍奉行に取り立てられる前までは長屋の天井が抜けて空が見えるというほど貧乏暮らしだったという一方、江戸三美人の娘たちは、江戸中から集まる追っかけからチップを貰っていたのだから、いったいどれほどの収入があったのでしょう。

なんでも、お仙のいた茶屋かぎやでは、お仙にあやかった小物も売っていたそうで、元祖アイドル・グッズ商売でもあったようなのです。

 

この水茶屋は、話題のネタが広範囲に現在の社会風俗にも関連していて、どんどん興味が広がります。

今回#41も、佳境「水屋」を書きたいのに、書ききらなかった水茶屋関連話題を引っ張ってしまった。

(『絵本江戸みやげ』西村重長〜早稲田大学図書館 浅草仲見世と宝蔵門)

そんなお話は、もう水茶屋や浮世絵を専門に取り上げているブログなどでありそうので、ご興味のある方は調べてみるのはいかがでしょう。僕もまたいつか、浅草寺の仲見世の歴史あたりで、書こうかと思います。

 

で、今回は水屋なんです。

水屋という職業は、イメージ浮かびますか?

 

「ミネラルウォーターを買って飲む」

そんなのが始まったのは、いったいいつからブームになったのだろう。

海外旅行しないことには「水」が水道から飲めない!にぶち当たることは、まずない。

つまり、「必要」なのか「おしゃれ」なのか「かっこいい」なのかあたりが、ブームの最初なわけだ。

欧州では珍しい(けど日本じゃ珍しくなんともない)軟水なのか、ミネラル含有量が豊富な硬水は健康に良い等はブームにとっては後付け。

 

で、調べると、Volvicは1986年。 evianは1987年に日本で販売を開始した。30年前ですね。

1986年から91年の経済をバブル期というが、老いも若きも海外旅行をするこの時期を先行すること10年ほど前くらいには、欧州を志向する人々の間では持って帰ってでも飲んでいたんでしょう。

そんな、モードな方々にも、また、その後のファッション・リーダーや、フォロワーとなっていく人々にも全く興味を示さず、水自体を飲まず、昼間はコーヒー、夜はアルコールしか飲まずにほとんど生活している僕には、まったく無縁な食文化です。

 

じゃ水屋・水売とはなんだ?

(時代かゞみ弘化之項 揚洲周延 国立国会図書館)*1

 

この美人画の上部にまったく関係のない場面が描きこまれているのに注目。

切り取ると・・・・

桶の上に乗っている茶碗に、水を注いで、旅人に渡しています。

これが、街頭での水売です。

 

現在では自動販売機が市中いたるところにある日本。

外国人が最初に驚く日本の光景は、屋外に立つ自動販売機だと言います。

治安の悪い国や町なら自動販売機を壊す輩がいるので、折角の無人販売機も屋内に置くからです。

当然、自販機の無い世の中だったら、「自宅から離れた時、あなたは、喉が乾いたらどうする?」という問題に行き着くわけです。コンビニなどあるわけない。

つまり、休憩できる茶見世か、もっと手軽な水屋という商売になるわけです。

 

非常に埃っぽかったと言われる江戸。

商人ならずとも、紅葉だ、花見だ、花火だ、芝居だ、罪人の処刑だ、と、人々は、精力的に市中を徒歩で移動します。

そんなおり、寺社仏閣の門前や広小路、大きな火除地など人々が集まる場所の特に夏場は、季節商売として水売が立ったそうです。

 

(帝国興信所日報部編 財閥研究 第一輯 帝国興信所 昭和4-5年)に面白い記述が掲載されているのを発見した。

浅野財閥の4.上京後の奮闘と発展の項目に、「一。スタートは水売」

 

以下は、その内容の転記:

「当時市中の盛り場の辻々で屋台を出して売って居た水売商売を見て痛く心を動かし、これにヒントを得て宿の主人に相談し、愈々水売を初めてみようといふ事になった。そこで、早速商売道具原料の買集めに着手し、左の如く取り揃えた。(左とは、以下の通り)

  水汲桶一個 代金 二十八銭

  陶器水瓶一個  同  二十銭

  湯呑茶碗十個  同  十銭

  洗桶一個    同  十五銭

  小板二枚    同  五銭

それに原料として砂糖半斤を買ひ、全部でざっと一両位で商売の準備ができた。

そこで惣一郎青年は早速商売道具を引かつぎ、宿から程遠からぬ御茶ノ水橋の傍らに店を張り、宿の主人に教えられて、崖下から滾々と湧き出る清水を汲んで水瓶に移し、それを湯呑茶碗に汲んで砂糖を入れ、頓狂声を張り上げて、「冷(ひゃ)っこい~~~、さあ一杯一銭~」と怒鳴りだした。これが惣一郎青年が上京後最初に手をつけた仕事であったが、此のささやかな水売の屋台店こそ、後年浅野セメント会社となり、東京汽船会社となり、全国を風靡する浅野系事業の濫觴(らんしょう)を為そうとは神ならぬ身の何人も知る由がなかった。

 斯くして初日の売上高は大枚二十四銭、その後の一日平均売上高は四十銭くらいであったが、原料は只同様であったから、売上の九分通りは純益となるわけだ。(中略)雨天を除いても一ヶ月十圓以上の純益を挙げ得たので、下宿代六圓を支払っても尚ほ余った。だが、何分季節ものなので、商売足掛三ヶ月余で廃業の外なきに至った。」

ここで書かれている惣一郎青年は、のちに浅野セメントをはじめ、現在でも日本人ならびに外国人にも馴染み深い企業、サッポロビールの前身(札幌麦酒株式会社)を大倉喜八郎、渋沢栄一とともに起業した浅野総一朗だ。京浜工業地帯の生みの親とも呼ばれていると聞くと、どれほどの偉人か想像できるでしょう。

 

(新編江戸見世屋図聚 三谷三馬)

この絵をよくみると、「志ら玉」と店に書いてある(二人のちょうど間の柱)。

つまり、この絵は、水に砂糖を入れるだけではなく、白玉団子までいれて売るsweets stand的な水売。

自販機で売っている缶入りナタデココ入り清涼飲料水の原型ですな。

 

 

「きょうは、ここらへんでよかろうかい」と西田敏行さんの声が聞こえてきそうです。

さて、長々と書いた#41「水売り」水商売。

意外な展開でしたか?

 

ここで、水売りおしまい。と思いました?

いえ、あともう一回あります。

次回、水商売・水売をお楽しみに。