こんにちは

 

40回になりました。

歴史・旅・観光・芸術・文化・風俗など、多くのジャンルをクロスオーバーした記事を今後も書いていきます。

ご興味がある話題に少しでも触れる機会となり、話題のネタになればと思っています。

 

揚屋の定義から京都でいうところのお茶屋がどんなところかを紐解いた前回。

しかし、このお茶屋。これが茶屋店の初めではない。

そりゃそうだ。遊郭にあるお店が「お茶屋」なんだから、明らかに、「お茶」が主体じゃない😏

 

茶屋といえば峠の茶屋、渡しの茶屋など、ちょっと座ってお茶でも一杯。「あ、おねえさん お茶ひとつ」

 

京都に住んでいる、または、「時々 観光に行きます」なんていう京都好きな人には有名な話でしょうが、日本史上で名を残し最も古い茶屋は、現在も宇治の宇治橋の東に茶店として営業している『通圓(つうえん)』と認識されている。

 

先日、こちらに伺った時は、平等院の秋の特別公開 夜間ライトアップに合わせて訪問したので、息子が抹茶ソフトを食べたものの良い写真は撮れませんでした。

というわけで、Google Map先生の掲載している写真を拝借しましょう。

 

右奥が宇治橋。この通圓茶屋の真正面が、京阪宇治駅です。

なんの前情報も持ち合わせていないまま、駅から真っ直ぐ此の店に入って、抹茶ソフト食べて平等院へ。

という観光客がほとんどでしょうね。

観光ガイド本には書いてあっても、カバンに入っていても「しらなかった・・・」というのが普通。

観光スポットや歴史スポットは案外ほとんど気づかないまま通り過ぎてしまっているものです。僕もね。

これが、一生に一度の海外旅行だったら、「ほんと何してんだろう (T T)」の世界。

親しい友人と旅をするなら目的も様々でしょうが、ひとり旅するなら事前情報収集は肝心だね。

 

このお店の歴史については、こちらのHPに詳細な歴史的いわれが記載されていますので参照ください。

https://www.ujimiyage.com/user_data/profile61.php

う〜む これを読んで吉川英治の『宮本武蔵』をまた読みたくなったり、そういえば、柳生石舟斎先生の柳生の庄を数年前に訪問したことを思い出した。

 

さて、この通圓茶屋。京都の名所を描いた『都名所図会』にも出てきます。

このページのタイトルになるくらい超「名所」ってことです

(『都名所図会』秋里離島・著 竹原春朝斎・絵 国際日本文化研究センター)

この絵の右下が宇治川に架かる宇治橋。そして、拡大した写真が下図

この日本語で書いてあるのに、滅法読みにくい『都名所図会』には・・・

「通圓が茶屋 橋のひがし詰にあり、いにしへよりゆききの人に茶を調て、茶茗を商う、茶店に通圓が像あり。(むかしより宇治橋掛替のときは、此家も公務の沙汰とし造りかへあるとなり)」

と、書いてある。ここにお茶屋が出来たのは、安永9(1780)年出版当時ですら、「いにしへ」のことでいつからなのかわからないと。

お茶を一服飲ませてお茶を売る元祖だそうです。茶屋という言葉は、この店の商売形態が、それすなわち「THE 茶屋」だったのでしょう。

 

しかし、言葉は変化するもの。「THE 茶屋」からいろんな茶屋や茶店が様々な商売形態への変容と共に生まれるのでしょう。

喫茶店なのか、純喫茶なのか、カフェなのか、Coffee Shopなのか。昔も今も、日本人のやってることは変わらんなぁ、と知る。

 

茶店として、店舗を構えてお茶を出す通圓があれば、江戸時代中期9代将軍の頃には、市中で場所を定めず野点(のだて)して一服一銭で煎茶を振る舞う売茶翁という人も現れる。

 

(売茶翁 絵:伊藤若冲)

がしかし、「上方にも、すでに美女を擁した掛茶屋が多く発生しているので、売茶翁の風雅も、所詮、茶屋娘の艶色には敵すべくもなかったのである。そしてこれは、とりもなおさず一服一銭の茶屋の崩壊を意味するものであったろう。」と『繪本水茶屋風俗考』を書いた佐藤要人氏は書いている。

 

ふふふ 「お茶一服の値段は、お茶そのものよりも、茶屋娘次第」と、こういうことになってきたのである。(¬ ¬)

そうすると、「茶店」から派生する様々な業態に、名前とイメージがあるわけで、これまた、それを説明する風俗考文献が残っている。

 

以下は『繪本水茶屋風俗考』佐藤要人著からの要旨抜粋。

「茶見世(在来の人の休息所也)京は四条河原 祇園社頭 北野社頭 清水寺 右等に在るもの皆小屋掛のもの也。俗に掛茶屋と云。江戸にて出茶屋と云。住居は他所にあるもの也。」と幕末30年掛けて風俗をまとめた『守貞謾稿』に説明されている。

「◯水茶屋も寛保頃迄は、浅草観音地内、神田明神、芝神明、あたご或は両国等に有計にて、町中には無之事也。」(『寛保延享江府風俗志』より)

最初は、参詣者が多く集まる寺社仏閣に出来、それが両国(広小路)といった人の往来の多いところに店が発生した。

この『寛保延享江府風俗志』によると、茶釜や茶碗など小奇麗な店にしてお茶を出す店を初めたのは芝切通しにできた店だという。なんだか、今日のオシャレウンチク雑誌の記事を読んでるようだ。

今でいうと虎ノ門(愛宕神社)方面から六本木(飯倉交差点)方面に抜ける道で、江戸時代は東京西部から増上寺(徳川家の菩提寺)へ向かう時に使った道だとか。徳川幕府は、参勤交代の他、神社仏閣にも御参りする日付を制定したそうなので、増上寺へ向かう大名行列が通る繁華街だったのでしょう。

 

さて、お待たせしました。

水茶屋が水茶屋らしくなってきます。

(『東海道五十三次 品川日之出』歌川広重)

「江戸は茶見世甚多く、天保府命前はもっぱら十六七より二十歳ばかりの美女各々紅粉を粧ひ美服を着し行之。府命に禁之て俄に眉を剃り歯を染る者多し。婦の姿となれども猶紅粉を捨ず。又美服を着す。近比漸々弛みて稀には眉ある女も出るといへども未だ婦を専らとす。後には眉ある者を専らとするに復すべし。」

と、前出の『守貞漫稿』が詳しい。

 

「江戸の東海道品川駅路を街道の第一とす。品川駅の北を高輪と云。八町あり。北一片は連屋過半品川娼家の引手茶屋、南は海岸にて葭簀張りの水茶屋連なりて虚地無之。高輪八丁如此也。水茶屋は多くは引手茶屋より兼る者多く、(後略)」

(前述の『品川日之出』の水茶屋を部分拡大)

 

ちょっと脱線しますが、歌川広重が東海道五十三次の品川宿を描く時間帯を「日之出」にしたのは、昔の人は健脚で大田南畝などは江戸から京都まで東海道を歩くのに一日40キロおよそ12泊13日で踏破したなんて書いてあるのを見かけましたが、いずれにしても、江戸の出立は早く夜明け前にでて、最初の宿場町品川宿で日があけるという。つまり、広重はまさに、誰もが「そうそう」と思い浮かべる時間帯を選んで作品を残したわけです。

 

茶店の裏が東京湾。上方へ急ぐ旅人に、日之出の時間には既に茶店の女性店員は三人共、もう出勤してる。

こんな絵画の楽しみ方、なかなかおもしろい。

 

お茶をだす休憩場所として早朝営業しているけど、引手茶屋と兼業していて娼家への案内もしているあたりから、だんだん水っぽくなってきました。

 

この水茶屋の茶汲女は享保中期(8代吉宗)ごろから見かけるようになり全盛は宝暦(9代家重、10代家治)以降と『繪本水茶屋風俗考』は考察している。

しかし、この水茶屋、水っぽいけど決して風俗店ではなく、あくまで、若い女性店員でお客を集める喫茶店だったと結論づけている。この「あそこ茶屋の〇〇ちゃんが可愛い」が、絵師によって浮世絵に描かれ評判になり、江戸住まいの男どもばかりか、参勤交代で全国から江戸にやってくる人々までも美女参りに足を運ぶことになったわけだ。

 

世の男どもは、水茶屋に通っては、正規のお茶代の他、お茶汲みの女の子の気を引こうとチップをはずむことになる。このあたりの、駆け引きが悲喜こもごもで、聞くも語るも面白いらしく、当時の川柳として多く残る。

 「水茶やでせい一っぱいが手を握り」(口説いたんだけど、手をにぎるのが精一杯)

なんてのは、めっちゃ頑張っている (^o^)/

 

そんな水茶屋も、逆に水茶屋風を隠れ蓑にして風俗営業する店や、水茶屋なんだけど奥座敷があって恋人同士の逢引に座敷を貸したり、店員と自由恋愛の場になったりと、なかなか線引は難しいようで、先に挙げたように身なりの規則を厳しくされたり、年齢制限を加えられたりした様子。

 

さて、ここまで読んだら、もう文字を見るのは飽きてきていませんか?

 

そんな水茶屋の美女たち。

特に有名は、鈴木春信が好んで描いた笠森稲荷門前の茶屋 かぎやのお仙

お仙のこの弓なりポーズと、線一本の目が、一度見たら絶対忘れられません。

広重、北斎、写楽、以外に、もう1人、判別できる浮世絵師を知っていると、モノ知り風に装えるから誰か教えてと、言われたら、間違いなく、僕は、鈴木春信のお仙ですね。

 

この水茶屋。

ここまで書いてきたように、水っぽい。はずなんだけど、「水っぽい絵を観たことがない」と思っていたら、見つけました。

いろいろ書物を読んでいると、インターネットなどには中々掲載されない、深掘りした本があるもので、みつけました。

 

この春画にならないぎりぎり手前。

風俗店にならないぎりぎり手前。

というのが、見事です。

 

ほら、この絵をみて、誰が誰を描いた作品か、もうわかりましたよね。

 

今回は、平安時代からはじまり、江戸時代の風俗・美人・美術とめぐりました。

次回は、同じ水商売でも、水売りを取り上げます。