今戸焼で前回#36は、まるまる一話になってしまったので、切り替えて第二部本編に。

と、ノートをめくって、「さて 江戸幕府から窯が認可された話は・・」と、ノートをめくっていたら、昔話を控えておいたのをみつけたので、それからはじめます。

 

(歌川広重 絵本江戸土産 第一遍 隅田川待乳山の夕景)

 

『台東区むかしむかし』という台東区に伝わる昔話を集めた本より。

「昔、浅草今戸に与八という馬子が住んでいました。

毎朝馬の世話をしていた与八は、ある日まだ夜明けない頃、馬が騒ぐので、馬を見に行くと、馬小屋の片すみに黒いものがうずくまっていた。かっぱが、馬の尾に飛びつこうとしていて馬が鳴いていたのです。

与八は、かっぱを脅すとかっぱは命乞いをしました。理由をきくと、「近頃魚がとれない。そこで土手をみてみると、人間が何やら糸をたらして魚をとっている。そこで、馬の毛を2・3本ほしい」と。

与八はかわいそうに思い、かっぱに馬の毛を分けてやった。

次の朝、かっぱがお礼にと、濡れた袋を置いて帰っていった。中には大判小判が入っていた。大金持ちになった与八は、今戸人形の焼き物を作ることにした。その焼き物を神棚に飾って拝むことにした。この話を村人が聞いて、与八の家で拝むようになったので、与八は焼き物を作り売ることにしました。」

というお話。

 

この昔話は、実は源義家が隅田川を渡る話を探していた時に偶然みつけたものです。面白いのでメモっておきました。

で、こちら。

これは郷土玩具研究所というブログの中に掲載されていた写真らしいのですが、現在はHP自体が閉鎖されていてこの写真だけが見ることができます。

そう、これが今戸焼のかっぱです。

昔話にあるとおり、「黒いものがうずくまって」いる通りで、しかも、なんとも言えない愛嬌があります。

今戸焼の人形は、一般に「人形」といって想像する生き写しのように繊細な人形と違い、ころりとして素人のようで素人では得られない妙味があるのが特徴といえるでしょうか。

話に聞くと、昔からの型があり、その型に入れて整形し着色してつくるようですが、古い型は元型をベースに作り直していくそうで、なにやら神社の遷宮のように、昔からのデザインを随時の陶工が模写して時代を引き継いでいたようです。

これ江戸時代からこのままずっと今にいたるとしたら、昔話の雰囲気そのままですね。

 

さて、本編に入りましょう。

 

今戸橋場と、土地の名前を出してきましたが、位置関係がわからないと思いますので、江戸切絵図で紹介しましょう。

(今戸・箕輪・浅草絵図 嘉永6(1853)年)

1853年とは、浦賀沖にペリーが黒船4隻を率いて来港。

老中首座阿部正弘がはじめて家臣である大名らに通商開港について下問したことから、『幕府の威光が地に落ちた』珍事が起きた年です。西郷どんでいうと12・3話くらいだったかなぁ。

 

絵図に話を戻しましょう。

画面右を上下に流れるのが隅田川。

「あ」が浅草寺。よって右に架かる橋が、吾妻橋で、銀座線・浅草線・東武線の浅草駅

  雷門が小さく書き込まれています。

「い」が芝居町といわれた当時、江戸唯一の官許 歌舞伎・人形浄瑠璃芝居小屋と芝居関係者が住まわされた町。文字でわかりにくくなってしまったが、新吉原同様「郭」になっており出入り口は3箇所しかない。

「い」の右肩にある▲が、待乳山聖天が鎮座する待乳山。

待乳山の上から、「う」新吉原の先まで掘られているのが、山谷堀。

▲から山谷堀を渡って隅田川の岸辺を⬛赤い網掛けで囲んだ場所が、今戸です。

現在は、台東区今戸という名前で、もう少し広い範囲になっていますが、この切絵図でみると、今戸の町名は、「浅草今戸町」というのが正式名称ですね。

 

まず、最初に掲載した歌川広重の『隅田川待乳山の夕景』は、この江戸切絵図と同様江戸時代末期に、切絵図上▲待乳山の脇の「目」の位置から眺めた風景です。

画面左の小山が、▲待乳山。

中央に、葦の間隙を割って、山谷堀に入る水路。

画面右が、浅草今戸町になります。

 

これは、同じ歌川広重が『東都名所 待乳山の図』として描いたもの。

山谷堀に架かる橋が、今戸橋で、現在は山谷堀を暗渠にして公園にしてしまっているので、橋は橋柱だけ路端に残っています。

今戸橋の左右は、川や水路で縦横無尽に繋がれた江戸や近郊から、新吉原や芝居町である猿若町に向かう人々が降りて食事・休憩や着替えなどに利用した船宿がならびました。

この今戸橋から山谷堀を逆上り少し行った右岸に、江戸随一と言われた料亭八百膳がありました。

 

この今戸そして、今戸の北にある橋場は、いままで何度も、このブログで登場した源頼朝が浮橋を渡したといわれる場所です。

しかし、前回「#36 育った町のむかし風景とは①」で書いた通り、瓦窯がいくつも並んでいたと書きましたし、実際同一浮世絵師の歌川広重が書いている通りですので、地図上南北に長い浅草今戸町は、今戸橋の脇が船宿。そこから、瓦窯が続き、その先に、隣り合う橋場の官営の銭座と続いたのでしょう。

そう、銭を鋳造するにも「火」は不可欠ですから、江戸時代はじめに火を扱うことを許された土地は、いつの頃からか必然、この土地になったのでしょう。

 

この銭座の変遷は、台東区教育委員会発行『浅草橋場の商家』に詳しい。

「寛政5(1793)年 砂糖製法所

 文化3(1806)年 油絞所。同所は文政4(1821)年移転。

 文政2(1819)年 銀座下吹所(つまり銭座)になる。

砂糖製法所というのが面白い。寛政5年は11代家斉の時代だが、実は日本国内で砂糖が国内生産されるようになるのは、8代吉宗が、サトウキビ栽培と砂糖による藩の殖産興業に努めたのがはじめ。つまり、窯も、砂糖、油、銭も幕府の政策的な工場利用地といえるでしょう。現在でいうところの経済特区みたいだ。

 

同書によると、橋場という土地についての歴史がわかる。

江戸時代 旧奥州街道の渡河地点で百姓町屋を形成。

正徳13(1713)年 町奉行支配の町並地になる。

 奥州街道(奥州道中)はじめ江戸幕府が五街道を整備し日本橋起点にしたのは慶長9年(1604)年だから定住的に人が住みだして町なるのは8代吉宗の享保の改革の少し前ということになる。

 この頃、法源寺(保元寺)の南側は(奥州)往還に面し、南側に高札場があり辻の札横丁といった。

 つまり、ここが一番奥州街道を使用して江戸に入る人通りが多い場所だったわけだ。

(いまは、幹線道が変わってしまい想像すら困難だ)

 

さて、実は、この今戸の北の橋場は、いまは想像がしがたいが、以下のような土地だった。

明治5(1872)年 東京府史料によると。

華族5戸〜浅野家、岡部家、山内家、松平家、水野家。

 

また、以下の名士の邸宅・別荘地があった。

三条実美(太政大臣)〜NHK大河ドラマ『西郷どん』での野村万蔵さん

神木治三郎(銀行家)

有馬頼萬(旧久留米藩主)

今井喜人(銀行頭取)

青池家(旧札差)

大谷和彦(ホテル)

郷誠之助(貴族院議員)

池田茂政(旧備前岡山藩主)

古川考七(一銭蒸気といわれた隅田川汽船)

松平慶永(旧越前福井藩主)

小松宮彰仁親王

 

錚々たる御仁のお館があったんです。

これ現在の近隣住人の方々、どのくらいが知っておられるでしょうね。

三条実美邸跡だけは、白鬚橋のたもとに明治天皇ご来臨の石碑が建っているので旧跡散策の方々の間でも有名ですが。

 

つまり人は、時代とともに流動し、また、地層のように新しい生活と歴史が重なれば、現在と連続性は失われて記憶の中にもとどまらず、唯一、探し出そうとする人々の目によって書物から掘り出されるということでしょう。

 

この別荘地・お館の話を次回、掲載して、僕が最初に興味を持った、「育った町のむかしの風景」を終わらせましょう。

 

==========

目にかけるこの地域の切絵図は、明治維新後、身分制度が撤廃された後も様々な理由や偏見にさらされた人々を守る等の目的で出版時の記載事項に昭和以降修正を加えたものを見る機会が多いですが、これは修正されていないものです。

過去を現在の個人につなげてどうこう評するのは、愚の骨頂だと思っています。

しかし、加えて、無知での批評や無視・忘却もまた愚かだと思っており、遡れるなかで「なぜ」「どのようにして」身分制度が作られ、定着し、また、その身分制度の中で施政者の都合よく属社会意識付けられていったのかを知ること。が肝要と思っています。