室町期の本を読んでいると書きましたが、室町期の3本と、ほか1本は浅草(江戸明治期)の本を平行して読んでいます。今回は、僕が浅草・浅草寺周辺の歴史を調べ始める原点となったお話。

 

僕の育った町は、浅草寺の北側、今戸という町。小学校は、浅草寺の裏(観音裏)でした。

(歌川広重 名所江戸百景 墨田川橋場の波かわら窯)

この浮世絵、橋場という名前ですが、実は、もう一つ広重の作品で同じ題材を今戸で扱っています。

それが、絵本江戸土産の第6編〜今戸瓦窯です

江戸時代、江戸の町は常に火災に悩まされていたことはご存知の通り。

そんな江戸の町で、「火」を使う焼き物はご法度です。

しかし同時に、それまで主要な屋根素材だった萱に比較して、瓦が耐火・延焼防止に有用ということから、江戸で唯一、火を使う窯を許可された土地が今戸・橋場だったそうです。

(このネタの出典は、台東区教育委員会が編纂した地誌からだったと思いますが、書名を失念してしまいました。後日、調べた際には追補します)

瓦は、屋根だけではなく築地塀にも使われたので、江戸中の瓦を焼くには相当数の窯があったと推測されるが、実際、上記の広重の「今戸瓦窯」にも「竃幾個が連なりて」と書かれていて、多くの窯から煙が立ち上るのが隅田川西岸に独特の風情を醸し出していたので、絵の題材として取り上げられていたのでした。

 

この今戸という町。おそらく東京都民でも名前を聞いたことがある人は、ほんの一握りなのではないでしょうか。

 

ところが今戸は現在とは違い、江戸時代から明治時代は、遊郭のある吉原や、芝居町といわれた猿若町へ江戸中から隅田川を使って繰り出していた当時、名前の知られた町(というか村)だったようです。江戸土産として参勤交代で江戸に来た諸藩の藩士が浅草寺で買って帰った土人形は今戸焼の人形でした。

そうそう、昨今は恋愛成就の神社として今戸神社が女性のあいだでは訪れる人々が多いので、地名より神社名としては有名かもしれません。

 

(歌川広重 浄瑠璃町繁花の図 右は、その拡大)

今戸焼で特に有名なものが「招き猫」。

「招き猫」発祥の地を前述の今戸神社が名乗っていますが、さて、実際のところはどうなのでしょう。

実際に、「発祥の地」を名乗る豪徳寺と今戸神社で直接訪問、問い合わせた方のブログをみつけたので、下にリンクを張っておきます。こちらの方のブログもどうぞ

https://travel.spot-app.jp/tokyo_manekineko_chiptaso/

 

焼き物の招き猫。神社が竃で焼くわけではないので「発祥の地」を名乗るのも変なのですが、先程HPを確認したら「招き猫 発祥の地」とは書いていませんでした。そう近隣に住んでいた老婆が作ったのです。

 

「今戸焼発祥の地」の碑はいいよね。「沖田総司終焉の地」は今は調べていないので黙秘(^^)

 

ところで、江戸土産・浅草今戸の焼き物 招き猫には、他の招き猫とは異なる特徴があり、それは現在でも縁起物として続いています。

それは、先に掲げた広重の絵の中に書き込まれています。

招き猫を販売している屋台に注目です。

◯に〆のマーク。「まるじめ」と言われています。

 

具体的には、こうなります

招き猫のお尻に、◯〆のマークが入っているのです。

これは、招いた福がお尻から出ていかないようにという印😆だそうで、まったく江戸っ子の洒落がきいてます。

見たことないでしょ。

 

江戸時代には、江戸唯一の幕府公認窯として隆盛した今戸焼も、明治維新後、幕府の認可制は、その他多くの不条理とともに、その不条理に付随した特権と同時になくなったのでしょう。

現在、今戸焼は、今度で唯一無二の製造販売店を残すのみとなっています。

小さなお店ですが、リンクを張っておきます。

今でも製作販売しているので、浅草散策の際に一足、足を延ばして手に入れて見るのはいかがでしょう。

面識はないのですが、小中学校の友人が近所に何人も住んでいたので馴染み深いお店です。

 

http://a-round.info/2017autumn-cat-street/3100

(注意:これは2017年の浅草エーラウンドからリンクを張りました。(白井さんの店はご自身のHPを持っていない御様子)

(2018年の10月の開催日程は、エーラウンドのサイトからどうぞ)

 

さて、地元の昔話を書いていたら、予想以上に長くなってしまったので、このあたりで続きは次回にいたします。

また、どうぞお立ち寄りください。

お待ち致しております。