こんにちは

 

前回#21は、浅草に観音様が示現されて、円仁が浅草寺を訪れたことが、後世の江戸時代に徳川家という施政者が江戸を治める上で、浅草寺と浅草周辺の街に大きな影響を及ぼす事件の発端になります。という前振りをしました。

 

今回は、家康がやってくる前までのお話。

 

源氏と平氏(武家の時代オリジン) in 関東です。

 

浅草・浅草寺は、徳川家康の江戸入府からは話題と資料に事欠かないので、観光案内では、ほとんど徳川家康以降の浅草・浅草寺を説明しています。じゃぁ、家康が江戸を作る前、浅草と浅草寺は、どんな歴史をたどっていたの? というのが、『各種案内を読んでからの疑問』です。

なぜなら、江戸時代になるまで、江戸は、歴史の教科書ではほとんど登場しないから、このタイトルに直結する「なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの?」つまり、どうして人が集まるようになったのかを知りたい。

 

そこで、浅草寺のパンフレットや、境内に描かれた浅草寺の歴史絵にかかれている事柄を、歴史の教科書等などで出てきた事柄と関連させて書きます。

 

家康が江戸に入る前の最大の出来事は、『平公雅が、浅草寺の現在の姿の原型になる伽藍を建てた』こと。

 

浅草寺の起源となるのは、この駒形堂です。

場所は、駒形橋のたもと、むぎとろの本店との間にあります。

 

宮戸川(隅田川のこと)から引き上げられた観音様が最初に奉安された地に立つお堂と説明されています。当初、隅田川に向かって東に向かって立っていたといいます。ここに、足繁く立身出世を祈願しに参拝に来ていた平安貴族がいました。その人が、平公雅です。

 

突然、聞いたこともない平氏の名前が出てきました。普通だったら、聞き流すところですが、これを調べないことには、はじまりません。いくら信仰心が篤くても伽藍を立てるということは莫大な資金が必要なこと。その尋常ではない背景は、『平将門の乱』です。

 

では、平氏の家系図です。

(歴史読本 源氏対平氏より)

 

平公雅の祖父は、高望王流桓武平氏の最初の祖、高望王。第50代桓武天皇の曾孫である高望王は、平朝臣を賜与され臣籍降下(皇族が姓を与えられ臣下になる)した貴族。

平公雅の父は、のちに平清盛が生まれる伊勢平氏の祖・国香と、江戸の地名に多くの子孫の名前を残す秩父平氏の祖・良文、そして将門の乱の将門の父良将の3人とは兄弟の間柄だ。

 

(出典 同上)

江戸名所『将門の首塚』や『神田明神』で有名な平将門の乱は、親戚の内輪もめから端を発した国家反逆罪。当時の勢力は上記の図の通り。

 

将門の父は東北地方の鎮守府将軍だったが早くに亡くなっていた。父の兄弟たちは、嵯峨天皇源氏の流れを組むと推測されている前常陸大掾 源護の娘たちを妻にしており、源護一族の常陸国土着化を援助していた。つまり、将門だけが、父の兄弟たちが持つ源護一族という共通政治基盤を持たず孤立していた。

その折、将門が叔父良兼の女に手を出したのが『女論』と呼ばれる諍い。この【女】は、良兼の娘で、平公雅の兄弟だったと伝わる。つまり、平公雅と将門は、従兄弟同士であり、義理の兄弟。

 

源護・平国香連合に対して、高望王一族ではない平真樹が将門に共闘を勧め、結果、将門が勝利。後の平家の棟梁清盛の先祖国香は、将門によって殺されてしまう。国香の後を継いだ将門の叔父/義父 良兼は、弟良正に促され弟良文と共に源護側につき、将門討伐に乗り出す。この戦いは、朝廷の知るところとなり将門は弁明に京に上ることになる。

帰国途上、興世王と源経基(源氏の棟梁の祖)と武蔵武芝が争いを知ると名誉挽回のため仲裁しようとしたが、意図せず謀反の疑いを朝廷から掛けられることとなり、次いで、悪政を敷き私腹を肥やした藤原玄明が将門のもとに転がり込んだことから、常陸守藤原維幾の引き渡しを拒むどころか常陸国府を軍勢で囲み常陸守を捕え印を略奪するという反乱を起こす。

 

(金龍山浅草寺聖観音略縁起 上 竹内栄久編 明治16 国立国会図書館デジタル・アーカイブより)

天慶(てんぎょう)3(940)年、将門征伐を命じる太政官符が発せられ、藤原忠文を征東大将軍、副将軍に前述の源経基を頂いた朝廷軍が編成される。また、平公雅と弟 公連、国香の息子 貞盛という将門の3人の従兄弟達、藤原秀郷と、橘遠保が、坂東各地の三等官官僚『掾』に任じられると共に、反乱に対する武力鎮圧を任務とする『押領使』に任じられた。同年、2月14日将門は、平貞盛・藤原秀郷の軍勢との戦闘の中、矢を額に受け落命、反乱は、征東軍の到着を待たずに鎮圧される。

 

この功績により、藤原秀郷は下野守・武蔵守・鎮守府将軍。平公雅は安房守に任じられた。

 

同時期に瀬戸内海で起きていた『藤原純友の乱』という2つの戦は、臣籍降下された王の孫たちが、地方長官となった親世代とは異なる立身出世を模索する政治・武力闘争の渦中に起きた。結果、朝廷から「五位以上の殿上人としての官位」を得るために、「源氏・平氏・藤原氏」は、身内同士でしのぎを削る「武門の祖」となっていった。{純友は官位をチラつかせた朝廷の懐柔策により官位を得たが、将門は官位を得ることがなかった。他方、将門を討伐した押領使たちは官位を授かった)

 

やっとこれで、浅草寺に戻ります。

そう、浅草寺史には、天慶5(942)年 かねてより武蔵の国司への出世を浅草寺の聖観音菩薩に願っていた安房守平公雅は、藤原秀郷の後任として安房守から武蔵守に任じられたお礼に、将門の乱で荒廃していた浅草寺の堂塔伽藍を再建。この際に、それまでお堂(現在の駒形堂)のあった隅田川岸の崖っぷちはあぶないと、現在の本堂の場所に9m四方の本堂を建築。その際に、三重塔を含む七堂伽藍が作り、田園数百町を寄進したという。

 

(金龍山浅草寺聖観音略縁起 上 竹内栄久編 明治16 国立国会図書館デジタル・アーカイブより)

上の略縁起では、七堂伽藍はより詳細に以下の通り記載されています。

本堂および宝塔・鐘楼・楼門・経蔵・法華常行の社壇を造立し、田園数百町と書いてあるようで、これは、江戸名所図会からの転記と思われる。ちょっとどこに記載されていたのか思い出せないのだが、この「法華堂・常行堂」が造立されていたことが、この時代には浅草寺が天台宗の寺院だったことを示していると書いてあったが、この2つのお堂を建てるのは平安時代の密教系寺院(天台宗と真言宗)の特徴とのこと。

 

さて、長くなりました。

平公雅は、浅草寺にとって重要な人物なのですが、彼が活躍した「平将門の乱(天慶の乱)」自体が、後世、天皇家の皇子の子孫達のうち武家として名を馳せていく家系の祖先がほぼ一同に会しているわけです。

 

平氏が主に主人公でしたが、上記の勢力地図で相模を勢力とする源経基の子孫は、こんな家系図になります。

下段の赤枠「義仲」は、平安時代末期、源義経と同時期に「木曽義仲」として後世に名を知られます。

また、中段の八幡太郎義家の孫で緑枠の二人は、南北朝時代に活躍する新田義貞の祖(義重)と、室町幕府を興した足利尊氏の祖(義康)です。

家系図を載せませんが、将門を討った藤原秀郷は、源義経を匿った奥州藤原三代の祖です。

源氏ではないが、頼朝を支援し鎌倉幕府創設の立役者となり幕府執権となる北条氏が自身の祖先としていたのが、平直方(娘と源頼義の間の子が八幡太郎義家・義綱・義光「陸奥話記」)で、直方の祖先が国香の孫・貞盛の子:平維将。平直方が、娘とともに自領であった鎌倉を源頼義に譲り渡したことが、後年、頼朝に源氏のみならず関東各氏族の協力を得られた下地になっているようだ。(「詩林采葉抄」)

 

ところで、なぜ平公雅は浅草寺に祈願したのでしょうか。

ここは勝手な推測ですが、彼の祖父高望王と父は上総介。叔父(父の弟)は下総介。当時、武蔵国と下総国の境は隅田川でした。現在の墨田区(下総国)から対岸の(武蔵国)台東区をみると、まだ岸辺に建っていた浅草寺は、武蔵国そのものの象徴だったのかもしれません。伽藍が出来上がると「武蔵守が信仰した寺院・霊験あらたかな寺院」として名を馳せることになったのでしょう。

 

次は、同じ平安時代 前九年の役に向かう源頼義・義家親子を追います。

 

なかなか江戸時代までいきませんが、忘れないように方向性

最後に、#19でリストした子供の頃からの関心をあらためて書いておきます。

★ なんで東京(江戸)といえば、浅草観光なの? ⬅ 今回はここ。次回も続きます。

★ 猿若町って変な名前・・(歌舞伎)

★ 吉原って、どうして風俗街?

★ 浅草の北側は、履物の町

★ 山谷(周辺)って、浮浪者だらけで怖い

★ あしたのジョーの町 

★ 当然ですが、お祭りと縁日の町