ガイドしてもらった二日間は、長いですが一回にまとめてみようと思います。

 

まず、台湾という国名ですが、元は、大圓といい、これは16世紀に大陸人が台南に入植した際の台南を示す名前で、清朝になって台湾を統治しはじめてから台湾とよぶようになったのだそうだ。台北・台中・台南もそれ以降の名前。

 

先住民族が住む中世台湾に、大陸の主に福建省の漢人が入植してきたのが、中国を起源とする台湾のはじまり。なぜ、福建省の人々なのかというと、話は17世紀 中国大陸の明王朝の終わりにルーツがある。一口に中国と言っても、現在は統一中国だが、もともとは各地域ごとに群生する各民族・部族の国があった。北方にいた満州族の清国に滅ぼされる直前、後の台湾政権を樹立する鄭成功の父親(明の福建省出身)は日本の平戸におり、日本人の母親との間に鄭成功が生まれた。鄭成功は、7歳で明国に帰国するが、明国は勃興する清国に滅ぼされる。鄭成功は明国血統の王を奉じて抵抗勢力として大陸沿岸で交戦も敗戦、地盤を固めるため台湾の台南に渡り、当時オランダの東インド会社が支配していた台湾からオランダ人を追い出し、1662年「反清復明」を目指す鄭氏政権を樹立した。しかし、1683年清国により併合された。

(中国と台湾の位置関係 地図)

地図をみると明らかなように、台湾が海を挟んだ向かい側は、福建省だ。

 

(清朝・乾隆臺灣興図より)

さて、先に台南が開けた。その後、現在の台北市の西に流れる淡水河の河口にある(現在新北市の)淡水に港町ができる。次に、淡水河を遡り基隆河との間にできたデルタ地帯の(現在台北市の北部)大龍洞から士林にかけて、次いで更に遡った淡水河畔の(現在台北市の西部)艋舺(のちに台湾総督府時代に音が似て佳い漢字を新たに当てられ萬華と改称)に港町ができた。

 

(清代臺北三市街より)

年代が経て萬華地域(龍山寺あたり)は繁栄するも有限の土地には既得権益も発生し、後続の移住者は萬華地域より下流に新しい街を拓いた、それが現在の大稻埕(迪化街のあたりの河沿い)。清朝は、末期1884年になってようやくこの2つの港町の東に台北府城を建設し対日本の中国防衛最前線とした。現在の台北の中心部は、この旧台北府場の市街地に建つ行政機関を中心に栄えている。

 

(北門)

僕の友達たちは、みな僕が歴史をめぐるのが好きなのをしっているので、これらの地図が地面にプレートとして貼られた北門の公園をはじめ、旧市街を案内してくれた。

この北門公園は、ここ近年整備されたもので、数年前までは、この北門の存在を否定して道路優先の立体交差になっていた。それを台北市長 柯文哲氏が推進し立体交差を撤去、2017年に8月に僕らが台湾発展の歴史をプレートで学んでいた北門広場が完成した。

 

(北門近くにある日本統治時代の日本の会社跡地記念館で、統治時代の台北地図を見入る僕ら一行)

 

 

今回は、淡水には僕らは行かなかったので、次に拓けた、士林(故宮博物院がある街)から。

 

(士林駅前)

この何の変哲もない高架橋の下にも歴史があって、このMRT士林駅からまっすぐのびる高架橋の下は公園になっているが、昔は、台湾総督府が敷設した淡水に行く鉄道だった。現在は、MRT淡水信義線となって高架に変わった。

 

(小学校)

この学校は僕の友達の出身校で、ぜひ紹介したいと最初に紹介してくれた。現在も統治時代に漢人のために台湾総督府が設立した小学校(柱の奥)で現役(現在はこの周りを取り囲むように新しい校舎が広がる)。柱に残る「公学校」が漢人の学校の意味とのこと。

 

(士林の街~昼間の町並み)

士林は、夜市で有名なのだが、そもそもなぜ、昼間にマーケットが開かれないで、ナイト・マーケットになったのか。この夜市は、慈誠宮を中心に街が栄えていて、慈誠宮のお祭り自体も夜に開催されるのだそうだ。

 

(慈誠宮)

また、士林の街は古くから服と紙の製造と販売が主要産業で、生粋の士林子の友人の想像では、昼間は仕事をし夜にお寺参り、買い物、食事とする生活サイクルだったのではないかと推測していた。たしかに、僕の友人たちの家では朝食すら外食でほとんど、家では炊事しないとのこと。台湾の漢人は上記の歴史から自ら新天地を求めてきた先祖を持つことから商売人で勤労意識が高いのかもしれない。

 

 

(迪化街)

初めて訪れるのだが、なんとも懐かしい感じのする町並みだ。迪化街も萬華も統治時代の建物がそのまま残っている町並みだと紹介してくれた。ただ、日本でもこのような町並みは見たことがないので、懐かしさは幻想なのだろう。また、迪化街には、乾物屋が立ち並ぶ。いやホント壮観なくらいだ。旧正月前になると、このあたりは乾物を買う人々で身動きもできないほどごった返すのだそうだ。そういや、自宅で料理しない台湾の人々は、乾物を買ってどうするんだろう。聞くのを忘れた。

かと、思えば、和菓子と中華菓子のハイブリッドのようなオシャレなお菓子屋さんなどができていて、老街と片付けられない発見もある。

 

 

(慈聖宮前の屋台)

この迪化街も慈聖宮というお寺があり、この寺の前に屋台がずらりと並ぶ。Googleによると、どれもこれもここの屋台は☆4クラスだ。屋台の前では座りきらないので、お寺の敷地のテーブルで食べる。ここで注意:それぞれのテーブルは屋台ごとに決まっているから、怒ったように指摘されても不愉快になっちゃいけません。

 

(萬華)

昔の建物を保存してリノベーションし、美観地区にしている町並み。映画の撮影などに使われていると聞いた。現在車道になっている東側の幹線道路ではなく、この美観地区の狭い通りが、本来のメインストリートだったようだ。

日本でも、巣鴨のとげぬき地蔵の前の通りが本来の(旧)中山道で、現在の駅前から伸びる17号は自動車が走るようになって整備された中山道というのと同じだ。

(龍山寺)

旧正月を過ぎ、ランタン・フェスティバルを翌週末に迎える時期で、ごった返す。このあたり、友だちによると、いつもオジサンとオジイサンばかりがいる街だという(^^) なんでも、龍山寺の門前の大きな公園では、将棋や、その他の賭け事が行われていて、暇なオジサンとオジイサンは何をするでもなく、時間つぶしに他人の賭け事を見に来るという。

 

僕らは、正月明けのめでたい週間だから出会わなかったのかもしれないが、普段はチャイナドレスを着た女性がこのあたりには何人か立って、オジサンとオジイサンの気を引いているのだという。女性も50代くらいだよと、笑顔で言われた(^^; あははは

 

友達たちによるローカルガイドツアーのハイライトは、長くなったけどこんな感じ。

 

次回は、台湾編 最終回 台湾のお寺についてをお送りします。

 

今回は、ながながと、おつきあいくださりありがとうございました。

ではまた