『シュリーマン旅行記 清国・日本』

ハインリヒ・シュリーマン著

石井和子訳

 

(追記)2018.7.27 写真や絵を掲載し直す

 

(前回 #8からの続き)

この本の中で、シュリーマンは、浅草を二度も訪れていることに触れている。

浅草寺、奥山での遊興見物に加え、なんと猿若町での芝居まで鑑賞して観た芝居の筋立てまで記録している。

ここで表現されていることは、面白いことに、ちっとも西洋の歪んだ色眼鏡が感じられない。

どちらかといえば、現代の僕らが江戸時代に迷い込んでしまったかのような感がある。

 

(奥村政信 狂言顔見世大浮絵)

 

そして、「#7バレンタインデー 遊郭での想いの伝え方」において、どうも吉原を書くことに気が重いと書いた僕の印象が、シュリーマンが見聞きした当時の人々の「娼婦に対する考え方」がまるで違うことが発見だった。

なぜ気が重いかというと、子供の頃に売られてきて、または一身上の都合で自ら望んで娼妓になり、年季を務めが終わるまで廓の中から出る事が叶わない。

また、多くの娼妓は色々な理由から20代そこそこで亡くなると読んでいたからです。

 

ここに引用してみます。

「(日本の江戸幕府は)貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに契約を数年更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の痛みしか感じない。なぜなら、売春婦は、日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業と比べてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは、芸者の年季を務めあげた後、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる。」

「娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期まで~すなわち12歳まで~この国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり、漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに最高(注記:才能とは書いていない)を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。

 

(明治22(1889)年 浅草寺〜この西側から本堂を見た図。屋根の下に大絵馬がびっしりと掛かっている)

 

(明治時代の浅草観音堂 新撰東京名所図会より これも同じく本堂西側)

 

「(前略)日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん(花魁)」の肖像画(注記:大絵馬)が飾られている事実ほど、我々ヨーロッパ人に日本人の暮らしぶりを伝えるものはないだろう。

他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しくも恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは思わなかった。ところが、日本人は、他の国では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目の当たりにしてーそれは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われたー長い間、娼婦を神格化した絵の前に立ちすくんだ。」

 

確かに、娼婦自身が絵馬を発注するほどの資金はなかったであろうし、絵馬の題材になれる花魁がいたこと自体、とても不思議が意識構造だと思う。

また、シュリーマンはアメリカ領事の国賓として滞在しているわけで、彼の質問の答えに、それが【「おいらん」ではない】ことはあるはずもない。

 

確かに、置屋の芸妓を身請けした著名人には、木戸孝允、井上馨が有名ですが、先に出した黄表紙作家 山東京伝の妻も吉原の遊女だった。

 

シュリーマンが公使館付きの護衛幕臣から聞きだした時代の娼妓に対する意識は、我々が持つ現在の意識との間には大きな隔たりがあるのかもしれない。

それは、ここでシュリーマンが持っている西洋文化またはキリスト教文化背景が戦後の占領下での思想・倫理観矯正にあい変容したのかもしれない。

その意味ではGHQが日本に作らせた特殊慰安施設協会の方が、「卑賎な職業意識のアメリカ文化・倫理観の上で設置させた」という考えかたが成り立つ。

色々な意味で、考えるきっかけをシュリーマンにはもらいました。

(浅草寺本堂 東京名所図会 明治30年)

 

(浅草寺の大絵馬について)

浅草寺は、境内に奉納された絵馬を飾っていたが、それが次第に大きいもので、かつ祈願者の財力と絵師の筆致の素晴らしさを競うようになり大絵馬が次々と奉納されたという。

現在、本堂に往時の大絵馬は掲げられていないが、年に一度ほど戦災をくぐり抜けた寺宝として公開される。

この絵馬を掲げた資料は非常にレアで、保存公開されている浮世絵から写真で唯一確認できたもの。