ヴァレンタイン・デーが近づいてきました。
St. Valentine’s Dayは、3世紀のキリスト教の聖人 聖ウァレンティヌスの殉教記憶日。時のローマ皇帝クラウディウス2世(Marcus Aurelius Claudius Gothicus)が兵士の結婚を禁じた治世において、兵士の結婚式を執り行ったため捉えられ処刑された。キリスト教がローマ帝国の迫害対象宗教から一転、国教になるのはテオドシウス帝380年のこと。(東西ローマ分裂は1054年とさらに後年だ。) 日本でバレンタイン・デーが「女性が男性にチョコレートを渡す日」として最初に打ち出しのは、メリー・チョコレートで、昭和33(1958)年2月14日新宿伊勢丹で手書きの看板を出したというのが定説との事。殉教者の記念日を知っていたことも、結びつけちゃおうという発想も画期的。
クリスマスケーキを日本に登場させたのは、ここより遡る大正11(1922)年 不二家だそうで、このメリー・チョコレートがバレンタイン・イベントをした頃に、不二家店舗の広域拡大とともにクリスマスにケーキを食べるというのも全国的に定着していったという。
この2社が、宗教だの信仰だの気にせず【イベントとして楽しめるものなら イェ~ぃ文化】を現代に定着させた革命家です。1950年に25歳くらいだった人たちだとしたら、今の93歳だから。もう結構長いこと、チャラ男とチャラ子してるわけです。ハロウィンの仮装よりサンタの仮装は年季の入り方が違う(~~)
で、ここで、吉原の遊女の恋バナなんて軽くない濃い話を書こうと思ったんだが、多くのブログにも書いてあるし、そもそも内容に気が重くなって仕方がない。 3日すでに放置した。
http://home.a05.itscom.net/hotaru/page171.html
こちらのサイト(松本深志落研OB会)が、吉原全般に他のサイトや文献よりも詳しいので参照ください。
ここで取り上げようとした、遊女が意中の客を引きとどめる手法が、想いの重さ順に説明してある。想いの重さが、質量を生むってこう言うこと・・・
幼少の頃、
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます♩ 指切った」
と歌ったあの歌と、その仕草。由来も知らずに、家庭や幼稚園・保育園でしていたなんて、罪なものです。
また、中学生の頃、不良(関西のヤンキーという言葉は、あの頃 知っていたんだろうか? 今ふと 思った)が、好きな異性の名前の下に「命」と書いていたが、まさか、それが、吉原の遊女が由来だったとは。。。『明菜命』『美穂命』ってね。当時 中学生 根性ないから机に掘ってました。
風俗三十二相 いたさう 寛政年間女郎の風俗 月岡芳年
(二の腕に、想い人の名前を入れ墨している図)
江戸生艶気樺焼 山東京伝 天明5(1785)
(右の絵 艶次郎が存在しない前の彼女の入れ墨を消して上から、これまた存在しない今の彼女の名前を入れ墨してる図)
ところで、自分の指をつめる代わりに、想い人に用意したというシンコ細工というものが、どういうものかだけを書いて終わりにします。
そう江戸時代は、チョコレートを渡すのではなくて、シンコ細工で作った指を渡したんだから。
ところが、そのシンコ細工すら見ること叶わないまま、細工職人さんは既にいないとのこと。
こちらも東都よみうり「最後のシンコ細工職人」に詳しいので、参照ください。この記事の後、8日後に「来年(当時2013年)いっぱいで引退」と
http://t-yomiuri.co.jp/最後のしんこ細工職人が「百個展」/
ところが、シンコ細工を調べていたら、中国でシンコ細工を見た人の記事が最近で数件上がっている。
さらには、金沢大学大学院に通っていた中国人留学生のシンコ細工に関する『中国・陝西省の新粉細工の伝統と発展』と題する博士論文まで発見してしまった。
日本の文化や歴史を掘り下げるのと同時に、同時代の西洋歴史的イベントや風俗などを比較してご案内しようと思っています。
う〜ん しかしどうも 吉原の遊郭の内側の話は気がのらない。大門をくぐる前までだな。。。
ではまた