*1 2018.7.27 柳屋お藤の浮世絵と、絵に書かれた石臼について説明を追加

 

きのうの皆既月蝕はいかがでしたか?

ぼくは、お月さまが全て地球の影に隠れたら、そりゃお月さんは影も形もなく真っ暗でしょ!

と思っていたら、月蝕が始まる前から「赤いお月さまになります」なんて教えてくれて。。。

期待もムードもあったもんじゃない。 小学生以下の子供がいる家庭なら「どうなるんだと思う?」の会話で知的好奇心を引き出したいものです。いや、ぼくが子どもの頃にも自分の子どもにも、そんな余裕のある会話したことないけどね。ほら そこは希望です。そんな家族像への 笑

 

さて、今日は楊枝屋です。

歴史小説とか好きだからでしょうか、江戸時代の店といえば、餅や団子の他に、菜めしだの、水茶屋、楊枝屋とナゼか頭にインプットされているんです。居酒屋的な酒や茶が出てくる印象がないのです。で、水茶屋とか楊枝屋って一体なんだ?と思っていたわけです。水茶屋は「深川江戸資料館」で去年教えて頂いたので飛ばして、ついさっき知った「楊枝屋」について書こうかと。

(歌川広重 浅草雷門前)

 

浅草寺境内には249軒(文化末期1815年)もあったんだそうです。

 

249軒も楊枝屋が成り立つ意味がワカラナイ。マーケティングの知識も不要ですね。

現在、歯ブラシを使いますが、歯ブラシが日本の一般庶民の手に入るのはずっとあとの話。

私が運営のお手伝いをしているsocialbarで『不潔の歴史』の前半を話しましたが、まだ話していない後半に、『アメリカ人が当時のヨーロッパ人に先駆けて清潔な国民』になる理由の一つに、歯ブラシの励行があります。

それでも200数十年前の話。じゃあそれより昔の日本人は歯ブラシなんてないわけで・・・

そう、楊枝です。楊枝が歯ブラシの原型だったんです。

 

でも、そんなに歯磨きの必要性なんて身銭に余裕があるわけでなし、使い捨てのものにお金をかけるか?249軒だよ 商売成り立たなきゃいけないのは。。。

実は、江戸っ子は歯を白くすることを大切にしていたという。

 

『色道大鏡』(藤本箕山著 1678年)に、外見を身繕いしても口の中に気遣いしていないなら、色を好むとは言えないね、って書いてあるそうな。笑う。

(欧州の「不潔の歴史」にもエチケット本は同じルーツをたどるね)

つまり、浅草寺参りは、吉原や芝居町にも通う途中にあるわけで、アパガードじゃないけど伊達男は白い歯を競ったそうだ。

(出典:『浅草謎解き散歩』新人物文庫)

 

しかも、浅草寺奥山の楊枝屋「本柳屋」のお藤は、「明和の三美人」と浮世絵になるほどの評判。

*1(柳屋お藤 一柳斎文調)

今の二天門(随身門)脇には水茶屋「難波屋」のおきたと、これまた「寛政の三美人」と全部で6人の美人のうち2人も浅草寺境内から生まれちゃうんだから、吉原や猿若町に行かずとも、男どもは一張羅を粧し込んで出掛けたことは疑う余地がない。

なんせ、江戸の女性人口は男性の半分以下と言われているんだから。

(江戸名所図会7巻16 天保年間 1834 金龍山浅草寺の楊枝や)

(並んでいる店が全部楊枝を売る店(笑)で女性が売っている様子がわかる)

 

ついに本題の楊枝だが、形が違うのですよ。

今回表題で使用した「古代江戸総集」からの一枚のこの女性が口にくわえているのが、楊枝屋が売っていた「房(ふさ)楊枝」。

彼女の咥えている反対側がほうきのようになっている。

本来、この小枝の先を叩いて木の繊維を房状にした方を使い歯を磨くのだそうだ。

また、楊枝屋は、この『房楊枝』とともに、歯磨き粉や、化粧品を一緒に商いしていたのだそうだ。

 

(古代江戸総集 房楊枝を使うおんな)

 

この本によると、歯みがき粉は、寛永2(1625)年江戸の丁子屋喜左衛門によって最初に製造されたという(それまでは塩、焼き塩などだったらしい)

*歯の博物館は寛永2年。日本審美歯科協会は寛永20年と出典により異なる

 

*2

ちなみに、先に掲げた浮世絵明和の三美人『柳屋お藤』の足元にある石臼は、この場で香料を配合して歯磨き粉を作ることを表現したものだそうだ。

これを考えると、なんとなく現在も祭りの屋台を出す「やげんの七味唐辛子」を連想する。

七味唐辛子売りのように、その場で辛さや香りをお客の好みに合わせて調合してくれる店もあったのだろうか。

 

 

長い時間がかかって、ひょんなことから答えがわかり、とても納得した。

またまた、役にも立たない雑学が脳の一角に住みついた。

 

浅草周辺を調べていると、目に見えない風俗や背景に気をとられて、調べ物が一向に進まない。どうしたら、いいんだろう。。。。

 

ではまた