2017.08.05
一日一季語
花火(はなび) 【夏―生活―晩夏】
沢山のことば遣うて花火の夜 ふけとしこ
1946年岡山県生。1987年より作句。市村究一郎に師事。「カリヨン」入会。カリヨン新人賞・カリヨン賞受賞。1995年「鎌の刃」30句により第9回俳壇賞受賞。現在、「船団の会」「椋」所属。「草を知る会」代表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
【傍題季語】
打揚花火(うちあげはなび) 揚花火(あげはなび) 仕掛花火(しかけはなび) 手花火(てはなび) 庭花火(にわはなび《にははなび》) 線香花火(せんこうはなび《せんかうはなび》) ねずみ花火(ねずみはなび) 遠花火(とおはなび《とほはなび》) 花火舟(はなびぶね) 花火師(はなびし)金魚花火(きんぎよはなび)
【季語の説明】
夜空に高く花開く打揚花火や仕掛花火などの大型のものと、庭先で楽しむ線香花火などの玩具花火とに大別される。初期俳諧では花火は盆行事の一環と考えられ、秋の季語であったが、納涼が中心となった現代では夏の季語に分類している。昔から有名な両国の花火は隅田川の「川開き」に行われた。
種々の火薬を組み合わせ、夜空に高く打ち上げて爆発の際の光の色や音を楽しむもの。も
ともとは、秋祭りの奉納として打ち上げられた。日本一の四尺花火が打ち上げられる新潟
県小千谷市の片貝地区では、子供の誕生や入学就職記念、追善供養など、生活の節目節目
に、住民が花火を奉納する。
【例句】
花火終へこんなにも人多かりし 嶋田一歩
宿の子を借りて花火を見にゆくも 田中裕明
花火後の離散の續く家族かな 中原道夫
対岸の仕掛花火に人浮び 稲畑廣太郎
花火見し一夜花火のことばかり 金子つとむ
【日本の花火のルーツ】
日本の夏の風物詩、花火。
そのルーツは古く、紀元前3世紀の古代中国、火薬の基本となる硝石が発見されてからと言われていますが、日本での歴史上の記録に残る花火の第1号は、それから約2000年後の天正17年(1589年)7月、伊達正宗が観賞したのが最初であるとも云われ、それに慶長18年(1613年)8月駿府で、徳川家康に、英国人ジョン・セリーヌが、同行の中国人の手で花火を見せたという記録もあります。
日本でのおもちゃ花火は、いつ頃から作られ売られたかはっきりとした記録はありませんが、万治2年(1659年)、大和の国(現・奈良県)から江戸へでてきた弥兵衛(初代鍵屋)が葦の管の中に火薬を入れた初歩的なおもちゃ花火を考案し売り出し、江戸庶民に爆発的な人気を得たと言われます。
当時江戸に興隆してきた町人文化に支えられてきた花火人気は衰えることがありませんでした。江戸のほか、花火が相当盛んであった地方は、三河・近畿・信州・越後・九州と言われています。
花火の人気と共に江戸幕府は花火の種類や火薬の量、使用場所や製造業者を指定したりして、安全対策を指示したようです。当時の江戸では、防火対策として広小路をもうけたり、川の両岸に火除地をつくって、今日でいう防火ベルトをもうけていました。
明治のはじめ頃、西洋からの輸入により、塩素酸カリウムやストロンチウム、バリウムなどの彩色光剤を得て、日本花火の歴史上最大の躍進の時期を迎え、今日の世界一といわれる日本花火の基礎がつくられました。
(出典:(社)日本煙火協会)
花火の歴史
天文12年(1543年)にポルトガル人が火縄銃を日本に伝えてから、
徳川家康が慶長8年(1603年)に天下を平定するまでの60年間・・・
火薬と火縄銃は幾多の戦場で歴史を左右するほどの重さを持っていた。
戦がなくなり、戦場での火薬の出番がなくなった江戸時代の慶長18年(1612年)、
日本で初めて花火を鑑賞したのが徳川家康 である。
文書によれば徳川家康は慶長18年の8月6日に駿府城で 明人が立てた花火 を
尾張、紀伊、水戸の御三家初代藩主とともにこれを見物したとある。
このときの花火は今のような打ち上げ花火ではなく、筒から火花が噴き出すタイプ
のものだった。
このように始めは外国人に頼んで花火を行っていたがその後、日本国内でも
花火を作るようになり、特に新し物好きの江戸っ子に受けて、江戸で花火が大流行
していく。その人気の高さは「花火の禁止令」 が出るほどだった。
鍵屋
鍵屋口伝書によると、鍵屋の始祖である 鍵屋弥兵衛 は大和の国の篠原村 出身で、
江戸に出たのが万治2年(1659年)、売り出した玩具花火が大当たりし、日本橋の
横山町に「鍵屋」を屋号として店を構え、店は代々受け継がれていった。
大当たりした弥兵衛が考案した玩具花火がどのようなものであったかといえば、
それまでの花火が手筒か、火車 か、ねずみ花火だったのに対し、弥兵衛の花火は
大川(隅田川)などのほとりに生えている 葦(あし)やよしの管の中に星(火薬)を入れた
もの で、それが大流行し、弥兵衛は一躍花火の第一人者になった。
玉屋
玉屋が暖簾を上げたのは文化の頃(1804~1817年)で鍵屋7代目の時代である。
7代目鍵屋の番頭に清吉という名前の男がいて、大変な働き者であったため当主
から独立のお許しが出る。
その清吉が市兵衛と名乗って始めた店の屋号が「玉屋」 である。
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【日本三大花火大会】
「花火の街」大曲が誇る日本一の芸術花火
1910(明治43)年に始まり、途中一時中断はあったものの、今回で91回目の開催となる「大曲の花火」。ここで行われる「全国花火競技大会」は、いわば花火師日本一決定戦。内閣総理大臣賞や経済産業大臣賞、文部科学大臣賞、中小企業庁長官賞、観光庁長官賞など数々の賞が授与されることから、全国の花火師たちの目標となっている。一流の花火師が熱く燃える花火芸術の最高峰をこの目で確かめてみたい。なかでも、注目の大会提供花火「ワイドスターマイン」は、1年かけて製作するという力作だ。
土浦全国花火競技大会
大正14年(1925)に始まりました。
全国の花火師たちが一堂に会し、優勝をかけてその技術を競う花火大会。秋田の大曲と並ぶ二大競技大会の一つだ。スターマインの部、10号玉の部、創造花火の部の三部門に分かれており、質の高さ日本一を競い、華やかな芸術品が夜空を彩る。19:00を過ぎると大会提供のワイドスターマインが複数の場所から同時に打上げられ、その迫力は圧巻だ。かなりの人出で大変な混雑が予想されるので、時間に余裕をもって出かけよう。
長岡まつり大花火大会
昭和20年の8月、空襲にあって焼け野原となった長岡で、翌年から復興祭として始まったのが長岡まつりの花火大会です。
歴史と伝統を持つ長岡まつり大花火大会は、信濃川河川敷で2日間にわたり行われる。合計約2万発というスケールの大きさを誇る花火大会であり、打上げられる花火の種類も豊富。見どころは、直径650mもの大輪となる「正三尺玉」やナイアガラ、ミュージック付きスターマイン「米百俵花火・尺玉100連発」。また、幅2kmにも及ぶ「フェニックス」、音楽とシンクロしたストーリー性のある「天地人花火」、「花火この空の花」も見逃せない。正三尺玉を間近で見るには長生橋上流、フェニックス花火は大手大橋下流がおすすめ。
【線香花火 筒井時正】
今では希少な存在となった国産の線香花火。
私たちは、その線香花火をより良いカタチで後世に伝えていきたいとの思いから、
とことん素材にこだわった新感覚の線香花火 『線香花火筒井時正』 を立ち上げました。
火薬には宮崎産の松煙、紙は福岡県八女市の手すき和紙、
その和紙を草木染めで染色し、職人の手によって一本一本丁寧に縒り上げられています。
宮崎の松煙
火薬に使う材料の要となるのが松煙。切ってから30年以上寝かせた宮崎産の松の根っこは、花火づくりに不可欠な油分を豊富に含んでいるのです。
天然の染料
えんじゅ、くちなし、蘇芳(すおう)など、天然の素材を使って和紙を染めます。淡くて、どこかやさしい。自然の中にすっと溶け込む色合いに。
八女の手漉き和紙
紙の厚さ、目の細かさによって、火のまわり方はまるで変わります。福岡県・八女産の手すき和紙は、火の勢いをスムーズに伝えていきます。
線香花火 筒井時正 ホームページ引用
以下の図書、ホームページを参考、引用しています。
(合本俳句歳時記 第四版 角川学芸出版)
(大人も読みたい こども歳時記 長谷川櫂監修 季語と歳時記の会編著 小学館刊 )
(ウイキペディア)
(575筆まか勢)
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