2017.03.12 一日一季語 初蝶(はつちょう《てふ》)【春―動物―仲春】
又窓へ吹きもどさるる小てふかな 一茶
小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名を小林弥太郎。別号は、圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など
寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた『父の終焉日記』は、私小説の先駆けと言われる。
文化5年(1808年)末には、遺産の半分を貰うことに成功している。取り分は田4~6反、畑3反歩、山林3ヵ所、他に家屋敷半分、世帯道具一式。この財産規模は柏原では中の上ぐらいの持ち高だという。一茶は、実際に文化5年以降は柏原村の本百姓として登録され、6年からは弥太郎名義で年貢も納めている。
文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。
【季語の説明】
春先に初めて見かける蝶のこと。まさに春の到来を告げるように、いきいきと飛翔する。黄蝶、紋白蝶が初蝶のイメージにあうようです。
【例句】
初蝶のしづけき交尾見了へけり 林翔
初蝶の猫の頭をすれすれに 池崎るり子
初蝶のこれより越ゆるものいくつ 奥澤和子
初蝶来湖の向うの野の平ら 高橋あゆみ
納骨を了へたる墓碑に初蝶来 峰尾秀之
【蝶】
蝶は、昆虫綱チョウ目のうち蛾目以外に分類される昆虫の総称である。南極大陸を除く全
世界に分布し、日本では二百五十種類ほどが知られている。成虫の触角は長く、先にふく
らみがある。卵 、幼虫、蛹、成虫という変態をおこなう。幼虫はアオムシ、イモムシ、
ケムシなどと呼ばれる。成虫は、鱗粉でおおわれる四枚の羽を持ち、ストロー状に細長く
伸びる口吻で、花の蜜や樹液などを吸う。
【蝶々夫人】
『蝶々夫人』(ちょうちょうふじん、Madama Butterfly, マダマ・バタフライ)とは、プッチーニによって作曲された2幕もののオペラである。
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものである。1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっている。
色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。特に第2幕のアリア「ある晴れた日に」は非常に有名である。反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い(第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ)ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「ソプラノ殺し」の作品とも言われる。
以下の図書、ホームページを参考、引用しています。
(合本俳句歳時記 第四版 角川学芸出版)
(大人も読みたい こども歳時記 長谷川櫂監修 季語と歳時記の会編著 小学館刊 )
(ウイキペディア)