助産師になろう! | 性のお話しが出来るお部屋mami25

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こんにちは。

 

 なんちゃって広島人になって3年。

 

 できるようになったことは、「お好み焼きは絶対広島が本場じゃけぇぇ。」という友人たちから伝授されたお好み焼きが

ほぼほぼ完ぺきに焼けるようになったこと。それ以来広島焼しか焼いてないので、我が家の子供たちは関西のお好み焼きを知らないの。(関西の方ごめんなさい。大人になったら自分たちで学ぶでしょう。)

 スノーボードが上手になったこと。これは結構はまって、のちにアルペンの板という普通の板より早く滑走するボードに変えたくらいです。

 後は、パチンコ屋の仕事でドル箱(当時はパチンコの玉がじゃらじゃら出てきて、それを箱いっぱいに入れて何段も積み上げるのがパチプロだと賞賛されていた。)を3段くらい持ち上げて運べるような力持ちになったこと。

 (勉強はどうした~~?)

 

 実家に帰ると、帰るたびに髪の色が赤いとか、左手に指輪をしてるとか、へそ出しの服は着るなとかいろいろ言われるので帰省は盆正月くらいにしていたもんで、タイムリミットの3年目は私にとって大分に帰らない次なる理由が必要だったのです。

(今ではすっかり地元人。アハハ。)

 

 看護学校は2年生から3年生は実習がハードになってきて、新幹線で広島市内の病院に毎日通ってました。実習生はかなり厳しく指導されることも多く撃沈して帰ることもしばしばですが、その日の記録を書かないと恐ろしい目にあう(と、思い込んでいたのは落ちこぼれの私です)…。友人たちがいなかったら乗り越えられてなかった。

 

 そんな中で、唯一「好きだわ~」と思えるのが母性看護学。なぜか、学びがすんなり入ってきて、生命の誕生や体の不思議が面白かったのです。高校の時も化学が好きで、「好きだわー」と思ってたらいつも100点で。(世界史は10点で呼び出された人)

 とにかく差が激しい性格です(性格なのか?何か違うで)

 

 ただ、分娩見学に入る実習では、「赤ちゃんってどうやって生まれるん?」なんて聞いたことも見たこともないわけです。

(授業での学びはどうした?)

 実習の前からなぜか恐怖しかなくて(これこそいつの間にか刷り込まれたバイアス)。看護実習生の私は分娩室の端っこに立たされて見学してたのですが、結局、途中で実習生の私が気分が悪くなり学生控室に戻るという始末。この時はさすがに落ち込みました。落ち込んだ理由は、看護学生なのに見学できなかった自分という気持ちが強かった気がします。

(産婦さんにも申し訳ない)

 この〇〇なのにできなかったとか〇〇だからやらなきゃ。という考えは結構後々まで続いてます。

 

 それでも、大分帰らないためにもう1年学校に行こう!とめげずに考えました。やっぱり好きだと思えた母性看護学なら続けられる!助産師になろう!

こ、こんな決断で看護師国家試験と助産学専攻課の入学試験に臨みました。

(もう、小さなころから目標を決めて目指した方々に対して、本当に申し訳なく、言われてみれば不純な動機で、世の中にすみませんって今は思ってます。)

 

 自分で決めた目標には立ち向かえるタイプで、ラストスパートで、何とか助産学専攻課に進むことが出来ました。

 親友が関西の病院に就職したから、ちょっぴり寂しかったけど、私は島根県出雲市の学校の寮生となりました。

 

 広島を離れる前に、大好きだった野尻先生と話しました。

(のちに広島県看護協会の会長をお務めの先生で、学校開設のために色んなポストを後回しにして来られていたとは全く知らず、授業もそこそこにしか受けていなくて本当に後悔しています)

 成人看護学の先生で、先生の目は確かで知らないうちにしっかりと私の事も見てくれていました。どっしりしていて、暖かく

 「本当に困ったときには連絡をしてきなさい。」と言ってくださり、その言葉を今でも心のお守りにしています。

 

島根の1年間がまた、濃い1年間で助産課の先生もびっくりの1年を過ごしました。

 

写真は、先日の「両親学級」の講座の準備中。

では、また書くね。