戦国時代最強の軍団『赤備え』 | 戦国好きのアドリブ雑記帳

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戦国ネタ(話)が多いですが、基本は感じたこと雑記した内容です・・はい。

戦国時代最強の軍団といえば?
 
直ぐに思い出されるのが『武田の赤備え』と言われた、騎馬隊ではないでしょうか。
 
そして、この赤備えと聞くと、歴史に興味の無い方でも真田幸村(信繁)の名は出て来ると思われます。
 
 
少し歴史に興味のある方なら、ちょっと前の大河ドラマ『おんな城主直虎』で有名になった?
井伊直政が率いる『井伊の赤備え』というのも、出て来るでしょうか。
 
 
実はこの赤備えという朱に染まる甲冑をまとった軍団は、枕の『武田の赤備え』から始り、その軍団を率いた部将の名から
武田四天王の一人である山県昌景の
『山県の赤備え』
が有名です。
 
 
そして武田家が、織田・徳川連合に滅ぼされると、武田の旧領をおさえた徳川家康によって、徳川四天王の一人となる井伊直正が赤備えな軍団を引継ぎ
『井伊の赤備え』
の名は、武勇の名をはせて恐れられました。
 
真田幸村(信繁)は、元々が武田家に仕えた真田幸隆の孫にあたり、大坂の陣にて家康に最後の戦を仕掛ける際に、赤備えにて家康の首を狙い打ちしたことで、有名になっています。
 
 
武田軍の赤備えを最初に率いたのは後世において甲山の猛虎とも呼ばれた、飯富虎昌です。
 
飯富虎昌は、朱色という色が敵の首級を多く取った者に対して、大名から賜る物だった事を利用して、騎馬隊を編成しました。
 
更に、その構成は武田領内において次男坊・三男坊という、当時の情勢では家族の跡継ぎになれずにいた者達を集めて、組織しました。
 
彼らは、地位や名誉を得るには自身が武功を上げなければ立場を得られずにいましたので、勇猛果敢に槍働きをして稼ぐしかない存在でした。
※こうした、次男坊・三男坊を集めて有効活用したのは、後の織田信長もおこっています。
 
こういった者を集めて組織した騎馬隊を先に上げた、首級を上げた者達に許される朱色で統一して、赤備の部隊として組織化して戦の先兵隊としたのです。
 
この飯富虎昌の率いた部隊が、武田軍において戦の際には猛威をふるった事で『武田の赤備え』として近隣諸国から恐れられる様になりましました。
 
この赤備えを率いた飯富虎昌は、残念な事に謀反の罪により亡くなる事になりました。
 
武田信玄の嫡男であった義信の守役(教育係)だったのが、飯富虎昌でした。
嫡男で武田の家督を継ぐはずだった義信ですが、嫁の実家は今川家でした。
飯富虎昌が守役として、義信を武田家当主となるように教育していた時期にある事件が起きます。
桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に首を取られてしまったのです。
 
そこで信玄は、義元亡き後の今川家を攻める事を決めました。
 
家督を継ぐ筈であった信玄の嫡男、義信は嫁の実家に攻めいる事を反対して、謀反の動きをしたと言われています。
 
そこで、信玄は息子の義信を廃嫡する事に決めて謀反人として裁き殺す事になってしまいました。
義信の守役であった飯富虎昌もまた、この件で連座して責任を取り自害したのでした。
 
この為に、飯富虎昌の率いた赤備えの騎馬隊は、虎昌の弟であり死を覚悟で義信謀反の企てありと伝えられた飯富源四郎から信玄へと事が伝えられた事で兄に替わり源四郎が引継ぐ事になったのです。
 
この飯富源四郎は、赤備えの騎馬隊を引継ぐに辺り、名を山県昌影と改めて
『山県の赤備え』
は、その後に更なる活躍をして、その名を轟かせまます。
 
戦国時代に最強の名を馳せた『赤備え』は、こうして
 
武田の赤備えとして
『飯富虎昌の赤備え』
から
『山県の赤備え』
 
武田家滅亡後にその領土権を得た家康ににより、再編成された
『井伊の赤備え』
 
戦国期、最期の戦であった大坂の陣での
『真田の赤備え付』
 
という歴史を得て
戦国時代後期に、その名を馳せたのでした。