消費税率10%なんて、まだまだ甘い!戦国時代の税金 | 戦国好きのアドリブ雑記帳

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戦国ネタ(話)が多いですが、基本は感じたこと雑記した内容です・・はい。

9月も半ば近くなり、来月の10月からは、いよいよ消費税が10%になりますね。
 
さて今回は戦国時代の税金について、書いてみたいと思います。
 
税金と言っても戦国時代の庶民の税金は、年貢という米を納める物でした。
 
 
この時代の通貨については、後程に記して行こうと思いますが、基本的に国産の通貨は平安時代の中頃に発行が止められていました。
 
そして室町幕府が明との交易を正式に始めた際には、銅銭などが用いられる様になっていましたが正式な通貨による制度というのは、確立されていませんでした。
 
ですから
農民は
『米や野菜』
を作る。
 
山で暮らす人達が取る
『山菜や鳥類、小動物』 
(戦国時代は四足動物を食用にしていなかった。 と言われていますが、実際には野生の小動物や場合により、牛・馬も食用としていました) 
 
海に近い地域では
『塩や魚介類』
 
こういった物が交換される、物々交換  (物品貨幣) という形で物が流通していました。
 
戦国時代は、それぞれの大名達が治める領地において年貢米を納める量が決まったり、その他のルール等も定められていました。
 
日本全域による決まった法は無くて、戦国大名達が統治する地区ごとに、分国法と呼ばれる異なる法整備がされていたのです。
 
この分国法により、それぞれの領主によって年貢を納める量は、まちまちでした。
 
一般的には、その領地における米の生産高において、六公四民だとか七公三民といった具合に、約60%~70%が税金として年貢米にて納められていたようです。
 
農民は一所懸命に、農地を耕して米を作っても、60%以上を税金として領主に納めていた事になります。
 
現代で、もし税金が一次産業の人達から半分以上を納めるルールになったら暴動がおきますね。
 
しかし戦国時代においては、身分制度などもあり、農民達はこの税率が当たり前だったのです。
 
そして、きちんと 『誰が?』 『どの位の農地を所有』 していて 『どれだけの取れ高』 で、米を生産していたか?
 
こういった把握は、秀吉が天下を治めてからの 『太閤検地』 が実施されるまでは、しっかりとは確認されていませんでした。
※この太閤検地は、今いうマルサの査察といったところでしょうか。
 
その為に、隠し田畑が多く存在しており、農民や領民達も上手く年貢を納める際に (納税) をごまかしたりして、やりくりをしていました。
 
そして大名達も、それが解っても 『見て見ぬふり』 をしたり、その年の食糧事情により厳しく取り立てを行い見つけた場合には処刑などの厳しい罰を与えたりといった状況によるアメとムチを使い分けていて、上手く領民達から不満を持たれずに領地を治める工夫をしていた様です。
 
これは、年貢の取り立てを通して 『生かさず殺さず』 という微妙な駆け引きを行っていたのです。
 
領地の統制が上手かった後北条家などは、戦国時代で一番低い税率の 『四公六民』 を実施しており、他の大名の領地から北条の領地へ流入する農民がいたり、この当時の戦(いくさ)は戦が起こると兵士として農民が駆り出されたのですが、わざと敵方の農兵は手を抜いて逃げたしたりして、北条が戦に勝ち新たな領主になる事を求めた。
 
そんな逸話もあるくらいです。
 
北条家と今川家との間で三国同盟を結んでいた武田信玄も、五公五民というその当時の税率としては甘い年貢の徴収率にして、農民の労働意慾をコントロールしていました。
 
こうした、六公四民や七公三民を基本とした税率で年貢を取り立てて、財政をやりくりしていた戦国大名達ですが、秀吉が天下を治めて豊臣政権が出来ると太閤検地により、キッチリとした石高が解る様になって行きました。
 
そして秀吉は、物品貨幣という物々交換以外に、海外との交易を行う商人や生産性の無い武士に対しても、物を造ったり手に入れて交換する手間を省き、様々な物が交換出きる通貨の使用を推奨していきます。
 
この辺りの商人達の交易やそこで得た品物の普及に際しては、信長が既に様々な形態にて海外から入って来た通貨の撚り銭を行うなどの道筋はつけていました。
 
秀吉自身は、戦国大名が戦の際に兵や物資を調達する為に、軍資金として用いられだした金・銀を溜め込みだします。
 
財源確保の為に、金山・銀山のある地域は豊臣政権による直轄地区として、開発と独自の貨幣鋳造に積極的に取り組むようになりました。
 
海外からの交易時に入って来た銅銭などには、その形状や素材に大きな差があり、通貨としての価値観の統一性もばらつきがありました。
 
豊臣政権では、豊富に蓄えた金・銀から新たな通貨として、天正大判などを産み出しました。
※但し、これは流通通貨としての価値よりも贈答用、文化価値の強い物でした。
 
 
また当時の日本にあった鉱山は、東日本には金山が多くあり、西日本では銀山が多いという状況から、金による硬貨その他の使用は東日本に多くみられ、銀を使用した物は西日本という様な状況をうみました。
 
この様な、通貨の生産と普及、領民への浸透状況が整わない事から、戦国時代においては、秀吉の太閤検地にて正確に米の量を計れる枡の流用と普及に合間って、領民からの税の徴収は米が一番効率性が高く日本の食料事情とも合間って年貢米による物が続きました。
 
そして、身分制度がある事と当時の食糧事情により、税の徴収率は江戸時代に入っても変わらずに
『農民は生かさず、殺さず』
を基本姿勢にして、年貢米による税の取り立ては行われて行き、通貨整備が幕府により行われだしても続いて行きました。