細川忠興 壱 | 戦国好きのアドリブ雑記帳

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戦国ネタ(話)が多いですが、基本は感じたこと雑記した内容です・・はい。

 

以前の記事で  コチラ

『 戦国時代は身分制度があり、殿様の子供が家を継ぐ時代の為に「親の七光」という表現が、適切では無いですが

「有名武将の二代目で、ボンボンなのか?」

「きちんと、戦国末期から江戸時代にかけてお家を残した、立派な人物だったのか?」

ちょっと判断が難しいと感じる人物が、私の中で二名います。

それは

「黒田官兵衛の息子・長政」

 

 

 

 

「細川藤孝(細川幽斎)の息子・忠興」

です 』

 

 


という内容を書いた事があります。

 

今回はこの、細川忠興について書いてみたいと思います。

 

実はこの黒田長政と、細川忠興は犬猿の仲だったのです。

 

 

その理由は領地替えの際における、黒田長政の年貢持ち出しによるものでした。

 

当時の領地替えにおけるルールは、領地を明け渡す方が、後から来る大名の事を考えて年貢の備蓄分から半分を残しておいて、その領地を明け渡す。

 

 

というのが、基本でした。

 

 

これを、たまに守らずに大名間でもめる事が、しばしばありました。

 

 

他にもある、こうした件での揉め事を書いた過去の記事は   コチラ

元々は、黒田家と細川家は良好な関係でした。

関ヶ原の戦い後において、細川家が持っていた豊後の飛び領地が、そこを旧領地としていた大友家から攻められたのですが、その際に長政の父だった黒田官兵衛は、兵を出して細川家の応援をしていました。

こうした件から、細川、黒田、両家の関係は良かったのですが、なんと官兵衛の息子の長政が、家康からの関ヶ原における活躍の褒美として、福岡50万石の領地を貰い領地替えをする事になりました。

 

 

その際に、以前の領地だった豊前の年貢を全て持ち出して、福岡へ移ってしまったのです。

 

その後に豊前へ直ぐに入った細川忠輿は、年貢の備蓄が無い事に怒り狂い、家康へこの件を訴えました。

 

家康は現在、幕府を開設した為に多忙な事から、両家で解決する様にとしか答えませんでした。

 

そこで忠興は、長政が豊前から福岡に年貢を載せて運んでいた船を襲って、年貢をとりかえそうとしたのです。

これを知った、両家と友好関係にあった山内一豊と、片桐旦元は驚いて、直ぐに家康に仲裁を要請しました。

それを聞いて家康は、やっと幕府を開いて天下を治めようとしている矢先に、家康に味方する両家が戦(いくさ)でも始められてはと焦り、あわてて榊原康正を遣わせて、長政と忠興の仲裁をさせて解決をはかりました。

この頃の長政は、家康に関ヶ原の戦いで、貢献して認められた為に、少し傲慢になっていて、父親の官兵衛が新領地を治める際に検地を甘くして、新しく入って来た黒田家が地元の豪族達から心を寄せられる様な対処をしていたのですが、それを黒田家が治める地域でなめられない様にと、大幅な課税処置をとってしまいました。

 

その結果は、多くの領民が黒田家の領地から逃げたして、近隣の忠興の領地へと逃げて来たのです。

 

忠興は、財政を倹約して治めており領民への課税を行っていなかった為に、この民の移動は大きなものになりました。

 

ここで、長政は領民の返還を忠興に求めましたが、忠興は先の領地替えの際の年貢強奪を恨んでいて領民の返還を拒み、もめる事になりました。

 

長政も傲慢でしたが、忠興もまた短気で怒ると中々恨みを忘れない、粘着質な性格でしたので、この当時の領民の勝手な移動には 『人返し』 という制度で隣接する領地の大名間では、人の勝手な移動を許さない決まりがあったのですが、無視して逃げ出す領民を受入たのです。

 

この意趣返しの様な忠興の対応で、この両家はこれ以降は完全に犬猿の仲になったのでした。

 

この件だけ聞くと、長政が強引で忠興は財源の倹約などで良政をしいており、悪く無い様に感じますが、(この両名、実はどっちもどっちな所があります) 忠興という人物は兎に角、気が短い事で有名でした。

 

父親の細川藤孝ゆずりの文化人でもあり、茶人としても一流だった忠興でしたが 『茶道四祖伝書』 という書物には

『忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である』

 

という記載が残されている程の、短気者でした。

 

因みに、ここに記載された忠興と蒲生氏郷は、性格は大きく違いますが、実は少し似た経歴がありました。

 

それは、織田信長を崇拝と言えるレベルで尊敬していて、あの信長からは大変に可愛いがられたという経歴があります。

 

忠興に対して、当時の織田家で日の出の勢いで出世していた家臣の明智光秀の娘である珠(後のガラシャ)と、信長は見合わせています。

 

その際には、大変に見目麗しい夫婦だと誉めて、更に信長の脇差に付いていた九曜の模様を忠興が以前から気にいっていた事から、この九曜紋を授けました。

 

この九曜紋はその後、細川家の正式な家紋となりました。

 

蒲生氏郷もまた、信長より寵愛(ちょうあい)を受けて、氏郷も信長を心よりしたい、信長の娘婿になっています。

 

更に、茶の湯においても千利休に仕えて、共に 『利休七哲』 に名を連ねています。

ここまで、書いて来た時点では、あの名将の誉れが高い蒲生氏郷と似た経歴で、父親の藤孝からの才能を受け継ぎ、文化人でもあり、織田信長に気に入られた人物として、かなりの優秀な人物で気の短さも、戦国武将としては良い気質だと感じるかもしれませんね。

 

しかし・・この忠興は、この気の短いさに起因して、かなりの粘着男な部分もあり、イタイ逸話も多い人物なのです。

 

今回も長くなりましたので次回は 『いっちゃっていて危ない忠興』 の逸話を、ご紹介しようと思います。

 

ですが! それまで待てない~という、あなたは下記にリンクをする、ブロガー仲間の、まり先生が執筆した

 

『日本史 悪 ミシュラン 細川忠興編』

 

 

を読んで、カンニング 予習してみて下さい。(笑)

(°∀°)b

 

 

追記

リンクを貼らせて頂いてから気がつきましたが、まり先生の様なウィツトにとんだ文章で面白い物はかけないかも?

村田節で書く 『いっちゃった忠興のお話』 は、結構リアルにおぞましいかもです。

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

 

 

 

 

 

 

 


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