嗚呼今日の夕日は目に染みる。
そんな時私は考える。
脳にしみこむ記憶、日本人の誇りとは何なのか、
肩こりと足のむくみ、治すことはできるのか、
たくさんある情報の中で一体どれだけの情報が私たちを
幸せにしてくれるのか、人とデザインの関係ってなんだろう、
ダンスって、音楽って、人間って・・・・
なんなんだろう。
ルーツ
私は今までこんなこと考えたこともなかった。
なぜなら答えは簡単、私の血は流動性も高く、
色も少女の唇のように美しく、私の体内を
駆けめぐっているはずだからである。
しかし違った。
どこが違ったかというと全体的に違った。
たった一滴の血による判断で私の血全体について
を決めてしまうのは独裁的でよくないと
思うが、でもどこを採ろうが私の血に間違いは
ないわけで、たとえそれが一部分についてであっても
判断をくだされた内容を否定するわけにはいかない。
簡単にいうと、「さらさらの血」と「どろどろの血」
があって、私は自分の物が間違えなく前者の分類に
入るのだと確信に近い思いを抱いて臨んだのである。
採血後理科の実験を彷彿させる顕微鏡というような
ものに私の血が載せられ、拡大された私の血が
15インチモニターの画像に写された。
私には専門用語的なものは分からないが(というより
忘れた)赤血球だか白血球だかヘモクロビンだかの
丸い物質がお互い分離している状態が、俗にいう
「さらさらの血」の状態で、健康な状態なのだという。
画像が次第に焦点を合わせ、拡大された
マイ・ブラッドがゆっくりと姿を現した。
丸いものと丸いものが大変仲むつまじく
くっついている。どれも集団行動である。
私のヘモクロビン達は
大変社交的らしい。くっつきすぎて
ほとんど合体した感じになっている。
10ぐらいの丸が窮屈そうにお互いを押し合っている。
見ていてもほのぼのとする光景である。
じゃなくて!
オー・マイ・ブラッドに一体なにが起きたんだ!
私のヘモ(略)達はもうはっきりいって
ぐちゃぐちゃで不良男子校の集団下校みたいに
列を乱しながらウネウネやっている。
ヘイ!
よくみると、その不良男子校生の列の間を
小さな黒いものが元気に泳ぎ回っている。
「大変元気お子さんですね」
というような調子で
「これは中性脂肪ですね。
ちょっと多いな・・・」
と看護婦に言われた。
初心者でも分かるぐらいに中性脂肪達は私の血の
中を一体なんの権利があってか知らないが
うろちょろしている。
私は事前に私がいかに健康的な食生活を営んでいるか
を説明していたので大変窮屈な立場に追いやられた。
看護婦は事情聴取をはじめた。
「健康には気を付けてらしたんですよね?」
はい、かなり気を付けてます
「たばこは・・・?」
吸わないです。
「じゃあお酒・・・・?」
ほとんど飲みません。
「じゃあ・・・」
看護婦は窮地に立たされ苦虫をかみつぶしたような
顔をして質問を捻出しようとした。
「水分は頻繁にとってますか?」
私がとってない、といったら全国のミイラ達が
ボイコットを起こすだろう。余り意味の無い例えだけれど。
ともかく私は水分に関しては人一倍とっている証拠が
実証によって示されているので答えはイエスである。
私が踊るのを見たことある方なら
説明するまでもない、異様な汗かきである。
「じゃあ、甘いモノをよく食べますか?」
人並みであろうとは思ったが完全にイエスなので
はい、といった。
「ブドウ糖のとりすぎかも知れないですね」
と言われたので
「朝昼晩ほとんどパンを食べてますが。」
と頭にベーグルを思い浮かべて言った。
「パンは糖質が高いですからね。」
酷い時は一日3食パンを食べます。
「じゃあパンですね。糖質高いから。」
そういって、尋問はおしまいになった。
私の血はベーグルが落としていった糖質により
渋滞のようだ。こいつらを追い出すには
あじ、酢、納豆らしい。
まったくまったく、いやはやいやはや。
本当に気分が悪い。
私の血にあの黒いミジンコみたいのが生息している
と思うとかゆいかゆい。
てことはヘルシー生活の幕開けです!
とっかかりに、ベーグル朝だけ、ゴマなし生活を
今日からはじめてみました。
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ところで土曜にヒー子と「アフリカンリミックス展@
森美術館」行ったぜ。
思ったより前衛的で土臭さが全くなくて(偏見)
新鮮だった。
やはり植民時代の記憶がアートの中に強く表れていて、
かなり暗い作品もあった。アフリカ史をほとんど
知らないので、作品のほとんどを見たままにしか
理解できず残念。
コンセプチュアルでシュールな作品が多く、
頭で考えさせられた。
植民側とそれに毒される自分の民族を批判する
ような作品が見られた。
ニューヨークのホイットニー美術館で
みた現代アートを思い出した。
ある映像に強く惹かれた。
というかほとんど怖かったけど。
ウィリアム・・・・うーん、うーん
こっからが思い出せない!確かケントリッジ的な
名前だと思ったんだけれど、南アフリカ出身の
彼の作品は凄かった。
白黒のアニメーションで、恐らく自分たちを
過去に苦しめた(どこかの)
支配者を批判してるものなのだが、
コマの動き、アニメーションの独特な
表現にドクドクしい憎しみがあふれ出すのを
感じた。
説明が難しいが、全体的に木炭で描いたような
粗くて激しい線画で表現されていて、
あるコマの一部で支配者の体だった部分の線が
次のコマに以降するときにゆっくり溶けるようにして
風景に変わったりする。そのグルグルと渦巻くように
溶けて変わっていく線画を見ていると
心臓がドキドキしてくる。
デフォルメされたテレビの実写映像よりずっとリアル。
この人について知りたいと思ったが
名前忘れちゃった・・・
でも森美術館に彼の本が売ってたので
見に行けば分かるっちゃー分かる。
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ってここまで更新した後に調べてみたら
あってた!
http://www.artnet.com/Artists/ArtistHomePage.aspx?artist_id=669708&page_tab=Artworks_for_sale
William Kentridge氏
MOMAにも展示されてるそうです。
知っているということ
あ、それ知っている
でも知らない
知らないけど知っているし知っているけど知らない
専門家の前では知らないけれど
友達の前では知っているわたしは、
結局何を知っているのだろうか
表現メタファー
それがなんなのかって
それがなんなのかって
私には分からない
コーヒーが酒に感じ
パソコンがピアノになる
鳥の手羽先がたこの足とダンスする
茶柱が立ってまた寝てまた立った
ラッキーアンラッキーラッキー
ってどっちやねんって
嘘が本当になって本当が嘘になる
表現ってなんなのかって
一見したところ
わたしにはメビウスの輪だ
声はバロメーター
声が大きくなると
みんなが耳をふさぐ
わたしの声がわたしをやみくもに投げるのを
うんざりした様子でみんなは見る
慎重に、大切なものを包み込むように
そっと そっと 声を落とす
すると今度はみんな聞き耳を立てて
わたしの思いをいっしょに共有しようと
近づいてくる
宇宙より広いもの
私は思っていない
地球がそんなに広いとは
私は思っていない
世界がそんなに広いとは
私は思っていない
日本?
そんなに広くはない。
東京?
ちっぽけだ。
我が家は謙遜しなくとも狭い
しかし一度目をつぶってごらん
無限が広がるから
それは広いんだなと、私は思う
今月のイベントチェックノート
1.カルティエ現代美術財団コレクション展
2006年4月22日~7月2日
@東京現代美術館
私が中学三年生の時に見た(7年前)
立川美術学院時代のパンフレットに載っていたある作品が
なんとなく記憶に残っていた。
その作品がなんと時を経てこの展示会で見られる、ということが
朝日新聞で分かった。
2.アフリカ・リミックス:多様化するアフリカの現代美術展
2006年5月27日~8月21日
@森美術館
3.世界遺産ナスカ展
~6月18日
@国立科学博物館
4.ロビン・ロード展
6月6日~7月30日
@資生堂ギャラリー
5.在本やよい「MAGICAL TRANSIT DAYS」
6月13日~7月2日
@京橋プンクトゥム
7月3日15時からトークショー、サイン会アリ
自由に拘束される人間
ニューヨークのグランドゼロを前にしたとき
に体感した。
人間は、別れの時に始めて終わりの悲しみを感じる生き物だと
誰かが言っていた。
区切りがなければ平凡な日常が流れるばかりで
止めどなく普通の日々が延々と続く
はじめがあり、そして終わりもいつかくるという
前提なしでは恐ろしくて生きていることなんかできないんだろう
「漠然とした自由ほど窮屈なものはない」
とある日突然ある人が言った。
その次の日何も予定がなくてどうしたらいいのか
分からないという話をした時に出た言葉だ。
リリーフランキーの言葉らしい。
人は自由という言葉にとても惹かれる。
そして制限という言葉を嫌う。
自由は無限で、宇宙だ。
どこまでも続き終わりが見えない。
何でもアリの自由さの中にいると
「一体どうしたらいいんだろう」と
自分の中に制約が生まれる。
自由と制約は表裏一体で、肉体的自由があればその裏には
精神的制約があったりする。
精神的に自由な人は幸せだ。
肉体的に拘束されても人の思考まで
奪うことはどんな人間でもできない。
何かの制限の中でいかに幸せに生きることができるか
これが私の人生の最大のテーマなのかもしれない
- V.E.フランクル, 霜山 徳爾
- 夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録
プライスレス・オールド・デイズ
今回のブルータス特集、「本」!
面白かった~。他人の本棚は丸でプライバシー
さらけ出してて楽しい。ブックレビューを読んで
本を買うことはどちらかというと少ない私だが、
この特集で取り扱われた本、全730冊の中に
間違えなく私のツボの本が潜んでいるのだろうと
思うと、途端にバーゲン前のワクワクさに似た
感情が私を襲う。
ところで、東芝だかどこかのJR車内CMの話を一つ。
大方のあらすじは以下の通りだ。
少年と少女が10年前に埋めたタイムカプセルを
掘り起こす。その中に絵が描かれた酷く傷んだ紙が
一枚入っている。それに男の子が得意げに透明の
フィルターをかける。するとその古びた紙が丸で
昨日描かれたもののように真新しく変化する。
そこでキャッチコピー。「あったらいいなこんな未来」
細かいところは記憶違いで間違っているかもしれないが
大方こんなあらすじ。
どう?あったらいいと思う、こんな未来?
私は嫌だな。
私は古い紙は古くならないといけないと思う。
確かに過去の芸術的遺産であるならば修復は必要になってくる
だろうし、表参道ヒルズのように昔の記憶をそのまま
残して、再建するという方法もあり、私はこれはむしろ
すばらしい事だと思う。
でも、自分たちが死んだら何の価値もなくなるような
ものまで全部生まれたての状態にしてしまうのは
記憶を消してしまうみたいでさみしい。
今まで買った本が我が家のかなりのスペースを陣取っている
いるのを見てもそれをデジカメでとってあとは
古本屋で売っちゃうってことができないのは、
記憶がモノの中にそのまま保存されているからである。
古いものが古くならなかったら、それこそ永久に
世界は新しいものだらけになる。
古いものを否定したら老人への尊敬も薄らぎそうな
予感もする。更に、若返りの美容整形なんかが
もっともっと繁盛するような世の中になり、
挙げ句の果てにはみながハズバンドをポンポンと
更新し、古くなったらポイの思想が浸透してしまうわけ
ですよ。
あったら終わりだそんな未来。
私はそういいたい。
履き古したスニーカー
しわの深くなった母の顔
使い込んだノート
旧来からの友人
昔昔にたてられた建築物
昔昔に描かれた絵
本
マスターカードの言葉を借りれば
プライスレスだよ。
新しいものを作るのは簡単だけど
古いものは二度と再生できない。
金の斧と普通の斧、落としたのは
普通の斧なのに、
そのことを忘れている人がいる
- 五十嵐 太郎, リノベーションスタディーズ
- リノベーションの現場―協働で広げるアイデアとプロジェクト戦略
- 成美堂出版編集部
- 表参道ヒルズ青山・原宿―青山・原宿
- 安藤 忠雄
- 建築に夢をみた

