吉行淳之介さんが青春時代を過ごした、静岡を歩く | マサミのブログ Road to 42.195km

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これ↓は、去年の4月、静岡県の掛川というところにある「吉行淳之介文学館」を訪問した時の記事です。よろしければご覧ください。
先月の終わり頃、当ブログでは、吉行さんが幼年時代から30代半ばまでを過ごした「市ヶ谷」の街を歩いたレポートをご紹介しました。私の“吉行熱”はその後も続いています。先日、若き日の吉行さんが高校生活を送った静岡の街を訪問しましたので、今回はそのレポートをお届けしましょう。まず、吉行さんが随筆の中で書かれている高校時代の思い出を抜粋します。

 

 

私の入学したのは静岡高校で、市のはずれの賎機山(しずはたやま)の麓のところに校舎があった。旧制度では中学が五年まであったから、高校一年生の年齢は現在の制度の大学一年生とほぼ同じに当たる。静岡高校の場合、一学年の総数は文科三クラス理科二クラス合わせて二百人、一年生は六つの寮のどれかに入って、寮生活を送ることになっていた。

校庭に出て、校舎を背にすると、真正面に富士山がある。視野いっぱいになるほどの大きさで目の前にあり、富士山は日常生活の中に入ってしまった。その上、その富士山に厭な色の膜がかかるようになってきた。

私の静高在学は、昭和十七年四月から二十年の三月、つまり太平洋戦争の期間にほぼ等しい。高校生活にも軍国主義は這入り込んできていた。毎朝、校庭に集団で富士山に向かって整列した。体操をさせられて、軍事教練の教官が指導に当たっていた。生徒が代表になって、手本を示したこともあったような気がする。整列した私たちの前に台が置かれ、その上に選ばれた生徒が立って、威勢のよい号令とともに体操の手本を示す。その向こうに富士山がある。厭な光景だった。

旧制高校に入学すれば、一人前の大人と見做された時代が続いていた。生徒が体罰を受けることは有り得ない。しかし、時代は変わってきた。心理学の教授が、授業中に一人の生徒を殴った。講義を聞かずにぼんやり窓の外を眺めていたという理由である。その生徒は憮然とした表情のままでいたので、その教授は気が狂ったように殴りつづけた。二学期になって、現役の陸軍大佐が教練の教官として配属された。この大佐は、軍服姿で校内を歩きまわり、しばしば生徒を殴るのである。

 

入学してからの一年間、私はほとんど毎日のように街に出て、映画を見たり酒を飲んだりした。東京よりはかなり物資が豊かであったが、それでも酒は一人につき銚子二本まで、ときめられていた。そこで馴染みの飲屋をようやく四軒つくり、都合八合、あとは酸っぱい葡萄酒を飲ませる店を見つけて、そこで仕上げをした。自分では酒に強いつもりでいたが、それらの酒はかなりの水で薄めてあった筈だ、ということに後年気づいた。

静岡は城下町で、町はずれの寮から濠端を歩いて町まで往復する。燈火を暗くするきまりの時代だったので、濠端の道は真暗だった。ある夜、街からの帰りに、その道で目の前の闇から不意に自転車があらわれ、大きく揺れながらゆっくりした速度で私に向かってきた。

「ごめんなさーい」

という若い女の声がきこえ、身をかわすと横腹を掠めて自転車は闇の中に消えてしまった。どういう女か、姿かたちの見える明るさではない。しかし、その女の声は青春の思い出として長く私の記憶に残った。そういうささやかな青春だった。「飲酒退学、喫煙停学」という新しい校則がつくられていたが、それは悪い冗談だろう、と私たちは解釈していた。

(短編集「犬が育てた猫」収録 『富士山』より)

 

ここで書かれている静岡高校にぜひとも行ってみたくなった私は、場所を探しました。現在の地図を見ると、静岡駅の北側に賎機山という山があり、その近くに「静岡高校」があるので「ここに違いない」と思い、、今回はそこを目指したのでした。

 

 

新横浜から新幹線なら早いのですが、私はお金をケチって、横浜駅から東海道線でゆるゆる、静岡まで。熱海と富士で二回乗り換え、4時間半ほどの旅でした。

 

 

静岡といえば徳川家康。駅の前には、「竹千代」と名乗った幼年時代に、今川家の人質に預けられていた頃の像が建っています。

 

 

あおいタワーの前には、家康公の銅像も。 私は駅構内にある観光案内所で地図をもらってから、ねんのため静岡高校に電話して訊いてみました。すると声は若い男性のようでしたが「旧制の静岡高校は、今は国立静岡大学になっていて、場所も移転しています。旧制の静岡高校があった場所なら、たしか城北公園という名前で整備されていると思いましたが・・・」と、丁寧に答えてくれました。そこで私は再び観光案内所に向かい、城北公園の場所を尋ねました。歩いて行きますというと驚かれましたけれど(笑)、また丁寧に教えてくれました。ここまでで、私の静岡への印象は相当に良くなっていきました(^^)

 

城北公園が私の目指す場所かどうか100%の確信はありませんでしたが、当たればOKだし、もしハズレならまた来ればいいやという思いで歩き始めました。静岡なら、またいつでも来られるし。自分の運を試す気持ちです。

 

 

静岡県庁、静岡市役所、葵区役所などがある広い通りを歩き、「浅間通り」に入ります。両側にお店が並ぶ商店街ですね。

 

 

浅間通りを抜けると大きな神社があったので、お詣りしました。「静岡浅間神社」(しずおかせんげんじんじゃ)です。

 

4つの神社を総称して「静岡浅間神社」と呼ぶそうです。竹千代という名前だった家康が元服の儀式をここで行ったことから、江戸幕府はここを厚く保護しました。写真では伝わりづらいですが、かなり規模の大きな神社です。そして私の印象ですが、社殿は金箔や色とりどりの装飾が目立ち、派手で華やか。日光の東照宮を思い起こさせる雰囲気がありました。鎌倉の鶴ケ丘八幡宮とは明らかに違う雰囲気なのが興味深かったです。

 

神社を出て、横の道をてくてく歩くと、右側に大きな公園が見えてきました。あれかな?と思って近づくと、入口に石碑が建っています。

 

 

 

「城北公園は、もと我らが母校、旧制静岡高等学校の所在地であった。政府は静岡市より提供された当所に万余坪を敷地として大正十一年八月本校を創立し…」 おお、合ってる!ここが吉行淳之介さんが学んだ、静岡高校があった場所なんですね。うーん。ここを教えてくれた、現在の静岡高校の人や、駅の観光案内所の人などの好意に導かれて、たどりつくことが出来ました。有難いことです。私は「吉行さん、来ましたよ~」と心の中で語りかけ、手を合わせました。

 

 

広い敷地内には、日本庭園が整備されていました。

 

 

アジサイもまだ見ごろでした。

 

 

おそらく昔は運動場だったところが、今はスポーツ広場になっています。後方が賎機山。晴れていれば、もっと向こうには富士山がハッキリ見えるのでしょう。二十歳そこそこの吉行さんは軍事教練としてこの広場に整列させられ、号令に合わせて行進の練習などを嫌々させられたんだろうなと思うと、いろいろな思いが湧き上がって来ました。

 

全然関係ないですけど、私の今の仕事は警備業なので、半年に一度の法定研修があるんです。広い会議室に何十人も並ばされて「3列横隊に整列!番号!気をつけ!休め!気をつけ!敬礼!右向け~右!左向け~左!回れ~右!」などと、号令に合わせて同じ動作を強要される時間があって、私はこれがもう、嫌で嫌でたまらないんですよ。これぽっちも仕事の役に立たないのにね。こういうのは、「自分の頭で考える」ことを止めさせ、人間をロボットにして、命令通りに動くようにするための訓練のような気がします。吉行さんが感じた嫌悪感も、意識の底では同じだったのかなと思ったりするのです。

 

 

公園の敷地内には図書館もあって、旧制静岡高校だった頃の写真も飾ってありました。

 

 

手前が校舎と学生寮で、向うが運動場。おお~。確かに富士山がクッキリと見えます。吉行さんはこの光景が「嫌な思い出」として残ってしまったのですね。

 

 

寮の部屋はこんな感じだったそうです。1部屋に2人だったのかな? 夏の冷房は無いとして、冬はどうしたんでしょうねぇ。火鉢でも置いたんだろうか。

 

 

これは↑静岡高校2年(18~19歳?)の頃の吉行淳之介さん。(青銅社『吉行淳之介による吉行淳之介』より)

 

吉行さんはこの地で何を感じ、何を考えたのかなぁと思いをはせながらしばらく過ごして、とりあえず今日のところは満足したので、来た道を戻ることにしました。

 

 

駿府城は空襲で焼けてしまい、ふたつの櫓(やぐら)が復元されています。これは二の丸南東西の坤櫓(ひつじさるやぐら)。城跡は駿府城公園として整備されていますが、今回は雨だし、歩き疲れていたのでスルーしました。また次回に。

 

 

駿府城公園のお濠わきの道。吉行さんが夜、若い女性の乗った自転車とすれ違いざま「ごめんなさーい」と声をかけられたのは、このあたりだったのでしょうか。

 

 

私は往路、浅間通りを歩く途中でこのお店を見つけ「絶対に帰りに寄ろう!」と思ったのでした。「静岡おでん」(発音はしぞーかおでん)のお店は駅ビルにもあるし「おでん横丁」というのもありますが、なんか観光客向けの匂いも感じてしまって。でもここは、長い商店街の途中にポツンとあるんです。いかにも地元の人に長く愛されてるお店という雰囲気を感じますよね?

 

 

入るとすぐおでんがグツグツ煮えていて、好きなものを注文します。

 

 

静岡おでんには欠かせない黒はんぺんの他に、大根、牛スジ、こんにゃく、じゃがいも、あと何かもう1品。静岡おでんの特徴は

「すべて串に刺してある」

「おつゆ(だし汁)は、よそらない」

「だし粉(サバ節とイワシの煮干しの粉末)をふりかけて食べる」

この3点です。いやー、嬉しいなぁ!

 

 

飲み物はこれまたお約束の「静岡割り」(焼酎の抹茶割り)を頂きました。お店の、若くて威勢のいい、可愛いお姉さんは「はい、オカワリですね~」と言っていました。静岡割りは「オカワリ」っていうのか!初めて知りましたよ~。これだけ飲んで食べて、確か千円ちょっとでした。もう天国!

 

 

ふとお店の壁を見ると、ロケで訪れたタレントさんの色紙がズラリ。志村けんさんも来たみたいですね。ははぁ。そうなのか。確かにここ、TVが来そうな雰囲気してるなと思いました。失礼ながら、あたりにはこれと言って特徴のあるお店は無いし、どうしてもここに来ちゃいますよね。月島のメロンパンのお店「久栄」さんみたいなものだなと思いました。ちなみに帰宅してから静岡のガイドブックを見たら、ちゃんと載ってる。有名店なんですね。創業60年以上だそうです。

 

 

でもまぁともかく、私が好きなタイプのお店でした。素敵な偶然の出会いに乾杯です!

 

 

 

雨ということもあって、静岡滞在は5時間ほど。この次は天気の良い日に、もう一度訪問させてもらいますね。長い長い記事でしたが、最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<おまけ>

この記事を書き終わって思いましたが、吉行さんが徹底して嫌ったのは、「たくさんの人を無理やり、ひとつの色に染め上げてしまおうとするやり方、考え方」だったのだろうと思います。そこは、私もまったく同感です。