なぜ、今、茶道を習うんですか?とよく聞かれるんですが、伝統文化だから知っておいたほうが良い、でもなく、女優だから時代劇の所作のため、では、もはや全く無く。
抹茶の淹れ方指導だったら、今は私のほうが、ややこしい事を言える自信がありますし。柄杓は、武士のように持つ!とかね、へ?って思うでしょ?
ただ家元から教わる内容が、なるほどと思える事や、そんな美学があったのかと発見する驚きが楽しかったから、続いたのかもしれません。
例えば、それまで、人前に出るから素敵でいなきゃいけないのに、格好をつけて目立つのが照れくさかったりして、そういう事ってないですか?逆に気を使わなきゃいけない、気取っていないと思われたくて、へりくだりすぎて、「いやいや私なんて、寝起きは頭ボーボー、目は開かないしむくんでるわで、ひどいものなんです。」といって、本当にひどい寝起きの顔を再現して見せて後で後悔したり。
表に出たいのに、出られない、みたいな気持ちで凄く居心地が悪かったりして。
そんな頃、茶道を習い始めてしばらくしてお稽古の時に、
家元に
「もっと自分の舞を(ここではお茶を点てる一連の動きのすべての事)魅せないと。」
「おもてなしする側が客より下な訳ではない、おもてなしする自分がこの空間を支配する強い存在なんです」
と、言われて、ハッとして。
えぇ~そうなの?っと。でも確かに、
例えば本当に良いレストランではまさにそのバランスが、取れていますよね。
「すてきなものを披露して、楽しませよう」って想いが足りない、それは照れていたり、怖がっていたり、または度胸ともいえるし。
大げさにいうと、まず自分を肯定する気持ちというか。
それが、なんだか、お茶をすることで、深く納得できたという感じでした。
しかも、それが派手な茶器やら、ご馳走じゃないといけない、というのではなく、もっと素朴なものなんだ、というんですね。
「素朴」、このSNSや、インスタ映え百花繚乱の時代に「素朴」って一体・・・・?でも、今の時代にとても癒す、素敵な言葉ですよね。
それでも、「素朴」は、ただ地味で貧相ではなくて、吟味された上質なものだったり、こだわりがあって、ちゃんと見ると素敵なもの。
これだ!これが私が目指すところだ!と、またまた、ストン、でした。