あまりにも突然の出来事なので気持ちの整理ができない状態。
ミユヤマさんとはこのブログがキッカケで交流を始めた。
このブログを彼女が読んでいて「私も子どもたちの成長記録を残そう」と、このブログがキッカケとなりブログを書き始めたと言われていた。
それからは水面下でメッセージやメールで励まし合い、そしてお互いのブログでコメントで何度も書いて交流した。
2009年12月、ボクが大阪へ出張が入ったときに、初めてミユヤマさんと、お子さんとお会いした。
ミユヤマさんは母子家庭。そして3人の娘さんを抱える母親である。
その3人の娘さんのうち2人が障害者というとても辛い立場であった。
長女は健常児、しかし2番目のくるみちゃんは重度の肢体不自由で車いすの生活を強いられ、完全介護が必要な状態。
そして3番目のちっちはボクもあったが、知的障害の女の子。
ちっちは超早産として誕生し、誕生時の体重は500g以下の状態で生まれた。
脳や内臓にも大きな障害があるが、ボクがお会いしたときはとても活発な元気な可愛い女の子だった。
そしてそれ以降もずっとメールやメッセで連絡していた。
この事は公にしていなかったけど、ボクの妻や、知人のかぐやさんが、彼女の家庭の生活に貧窮しているということもあり、お子さんへお古の洋服を何度も送ってあげていた。
それ以外にも子どものオモチャなども機会があればたくさん送ってあげていた。
その事をお子さん達がとても感謝してくれて、2番目のくるみちゃんは重度な肢体不自由で、文字もキチンと書けない状態だけど、直筆で手紙を一生懸命書いてくれて、御礼のお手紙を頂いたこともある。
そして大阪へ行くたびには必ず連絡はしていた。
ボクも出張で大阪に行くし、彼女もお子さんの事や離婚調停のことなど、お互いに忙しい立場だったので時間の都合もなかなかつかず会えないときもたくさんあったけど、ずっと連絡は取り合っていた。
そして今年の8月、久しぶりにミユヤマさんと再会。
くるみちゃんが入院中で、ちっちがお泊まり保育だったので、ミユヤマさんと2人だけで懇談することができた。
喫茶店で時間は2時間程度。
普段メールで聞いている内容について改めて状況を聞いたり、お子さんの状態や、環境について、そして将来ついても色々と語り合った。
一時は元気がなかった時もあったと感じたが、会ったときは「今は仕事をする為に介護の勉強を少しずつ始めた。これを身につければ、将来の子ども達にも役立つ」と前向きな決意も聞くことが出来た。
そして「近々、息子と妻、そしてミユヤマさんのご家族みんなで、万博公園に行って遊ぼう!」と決めていた。
「真輝とちっちのコラボレーションも良いねぇ!」なんて冗談で言い合っていた。
ただちょっと気になっていたのが、こちらが静止しないと喋り続けていた状態に「躁鬱?」とも感じるような行動があった。
しかし、母子家庭で障害児を2人抱えての生活だから、精神的にも体力的にも辛いだろうな・・・と思っていた。
10月3日からまたボクは大阪へ出張へ行く予定が入った。
それに関しても先日メールで送っていた。
「時間があったら会いましょうね!」と。
ミユヤマさんも、お子さんの体調があまりよく無いけど、回復したら是非!と言われていた。
そのメールが最後。
そして一昨晩、ミユヤマさんの携帯から、友人が代理で私宛に送信してきた。
「お亡くなりになりました」と。
すぐにボクは電話を掛けた。そして色々な事情を聞いた。
転落されて亡くなったと・・・。
あまりにも突然の事だったので、どこから情報を整理していいか分からない状態。
「この数日の間に何があった?」「残された子どもたちはどうする?」
ブログを追いかけてみると26日のちっちの誕生日の内容が最後。
29日の深夜にお亡くなりになったということ。
大阪へは身よりも親戚も居ない状態。
まだすべてが分からない状態。