先日、友人からこんな話を聞きました。
『千利休は、「人たらし」と呼ばれていた。
それは、お茶の席で相手の状況から、心までを読んでサプライズを仕掛けながら客人をもてなすからだそうだ』
これを聞いて、ふと思いました。
これこそが日本人が自分の意見を言わず、本当の意味で『空気を読む』ということなのではないかと。
友人との会話は、そこから一度、英語でのコミュニケーションの話に移りました。
アメリカには、沢山の人がいます。それこそ、知識レベルや言語能力のレベルも、文化的な背景も千差万別なさまざまな人がいます。
そんな国だからこそ、『アメリカ英語』というとても直接的な言語を用いる必要があるのではないだだろうか、と。
日本がこれまでにはぐくんできた文化・言語は、アメリカ英語による直接的なコミュニケーションを越えた(あえて、「越えた」と表現させていただきますが)ところにあるコミュニケーションを可能にしているのではないでしょうか?
だって、直接的な言葉を用いなくても、相手の心を掴むことができ、それをさらに愉しい気分にさせることが出来るコミュニケーションって、素敵ではないでしょうか?
(ガンダムに出てくる「ニュータイプ」を想起せずにはいられません)
でも、こう考えてくると、そもそも、アメリカ英語によるコミュニケーション的な要素を日本のコミュニケーションよりも高次なもの(イケテルもの)として輸入しようという考えそのものがおかしくなってくるような気がしませんか?
『自分の気持ちははっきり言葉で伝えなさい』といった雰囲気が広まると同時に、空気読まないと、なんだよあいつ、的な雰囲気になってしまう、といった経験やそういった雰囲気を感じられている方は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?
もちろん、ビジネスや国際関係の中で英語教育ははずせないものだと思います。ただ、その用途や、効能などをよく考えもせずに、英語を教えるようなことは危険だと思います。
日本語だって、優れた言語である(はず)ですし、その言語をこれほど自由に扱える日本人だからこそ、直接的な、ある種、意思疎通に特化したとも言える英語を扱う「方法」をもっと学ぶべきなのかもしれません。