万葉集の歌から



柿本人麻呂が石見国にいた時に死に臨んでの辞世の歌


鴨山の 岩根し枕ける われをかも

知らぬにと妹が 待ちつつあるらむ


かもやまの いはねしまける われをかも

しらぬにといもが まちつつあるらむ


鴨山の岩を枕に寝る私を知らぬ妻は待ち続けている


別の詠みをすれば


「かもやまの」は、「彼裳山の」

「いはねしまける」は、「い葉寝し設ける」

「われをかも」は、「我招かも」

「しらぬにといもが」は、「知らぬに問いもか」

「まちつつあるらむ」は、「待ちつつあるらむ」


この歌を割ると、問いかける言葉があるようだ


この歌の沓冠は

「ましわいかのるもかむ」を

「汝、我如何告るもが無」と詠めば

「お前、私が如何に告げるものあれば、無」となる


「汝(まし)」で始まる問いかけの言葉となっている

そして、告げるものは、「無」

「無の境地」、こだわるものがないということ、

「無」は「死」だから、死を待ちつつあるという心境を伝えてもいる


だから、この歌は、また、別の詠みをすれば


「かもやまの」は「彼喪山の」

「いはねしまける」は「言はね「死」負ける」

「われをかも」は、「我置かも」

「しらぬにといもが」は、「知らぬにと、斎喪」か

「まちつつあるらむ」は、「待ちつつあるらむ」


と、死を覚悟した歌でもある


二重に言葉が隠されている



柿本人麻呂が死去した時に、妻の依羅娘子が詠んだ歌二首



今日今日と わが待つ君は 石川の

貝(谷)に交りて ありといはずやも


この歌の表記には、貝と谷があるようだが、てどちらも、峡(かひ)に由来するもので、貝ならば、貝殻と貝殻の間、谷ならば、山と山の間を意味するのだが、本質は、間にあるということだ


けふけふと わがまつきみは いしかはの

かひにまじりて ありといはずやも


今日か今日かと私が待つ君は石川の「かひ」に混じって、亡くなっている


別の詠みをすれば


「けふけふと」は、「消生消生と」と、生死を彷徨い、言葉を消したり生み出したり

「わがまつきみは」は、「我がま付君は(和歌待つ君は)」と、私が付き添う君は、和歌を待つ君は

「いしかはの」は、「斎死か端(葉)の」と、死の縁で、辞世の歌を

「かひにまじりて」は、「峡に混じりて」と、死と歌の間に混じり

「ありといはずやも」は、「彼、理と寝、葉為やも」と、歌の理と病の寝を言葉にした


この歌は、柿本人麻呂の辞世の歌の本質を理解した上で詠まれている



もう一首


直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に

雲立ち渡れ 見つつ偲はむ


ただのあひは あひかつましじ いしかはに

くもたちわたれ みつつしのはむ


直接に逢うにも逢えない石川に雲が立ち渡れ、見ながら偲ぶ


別の詠みをすれば


「ただのあひは」は、「ただのあひは」

「あひかつましじ」は、「「あひ」かつましじ」と、「あひ」そうにないのだから、一句から、「あひ」を除き、一句は、「ただのは」となる

「いしかはに」は、「「い」然「は」に」だから、「い」を「は」につければ、一句は、「ただのいは」となる

「くもたちわたれ」は、「「くも」立ち和垂れる」なので、一句は、「ただのいはくも」となる、

「ただのいはくも」は、「ただの言は句、喪」と解釈できるから、辞世の歌のこと

「みつつしのはむ」は、「見つつ死の葉、無」と、辞世の歌を見ながら、死の言葉で無になる

五句は、「見つつ字の端、無」とも詠める


この歌の沓冠は

「ただのあひは」から「たは」

「あひかつましじ」から「あし」

「いしかはに」から「いに」

「くもたちわたれ」から「くれ」

「みつつしのはむ」から「みむ」


この沓冠を繋げれば、

「たはあしいにくれみむ」を

「戯悪し異に繰れ見む」と解釈


「戯(たは)」は、遊び、戯れ

「悪し(あし)」は、適当ではない

「異に(いに)」は、普通ではなく

「繰れ(くれ)」は、順々に引き出す

「見む(みむ)」は、見る


先ほどの解釈の手順で良いことが分かる


人の死に対しては、言葉遊びは不都合かもしれないが、柿本人麻呂の死に際しては、普通ではなあことでも良いだろう


この歌は、


「ただのあひは」は、「ただの合ひは」

「あひかつましじ」は、「合ひかつ座し字」

「いしかはに」は、「異字か葉に」

「くもたちわたれ」は、「句も立ち渡れ」

「みつつしのはむ」は、「見つつ偲ばむ」


と、歌をの真意の詠み方をも表している



丹比真人の歌


荒波に 寄りくる玉を 枕に置き

われここにありと 誰か告げなむ


あらなみに よりくるたまを まくらにおき

われここにありと たれかつげなむ


荒波に運ばれ来る玉を枕にし、私はここにいると誰か告げて


別の詠みをすれば


「あらなみに」は、「粗らな見に」と、まばらに見て

「よりくるたまを」は、「依り来る魂(言霊)を」

「まくらにおき」は、「枕に招き」

「われここにありと」は、「我此此に有りと」

「たれかつげなむ」は、「誰か告げなむ」


この歌の沓冠は、

「あに、よを、まき、わと、たむ」を

「彼に、余を、巻き、回む」となる

歌の端をぐるりと、回り詠めば、


「をにみならあよまわたれかつげなむとき」から

「緒に見なら、彼余真葉、誰か告げなむ時」

となる


逆回りなら

「をきとむなげつかれたわまよあらなみに」から

「置き富む、投げ付かれた輪、目よ、新な見に」

となる


このような言葉遊びは、多分、すでに、あまり用いられなくなってきていたのだろう

なにせ、複雑すぎる

でも、柿本人麻呂の歌の技法を誰かに伝えるべきだろうと、危惧しているようだ

でも、この心配の通り、

歌詠みの世界は、技法よりも心情重視に詠み方を変えてゆく

使われる言葉も変われば、社会の在り方も変わり、何より、人の心が変わる、考え方が変わるのだから

万葉集のみならず、歌の意義が変わってゆくのだから


でも、表面の言葉だけを詠んでも真意は分からない



さらにもう一首、詠み人知らずの歌


天離る 夷の荒野に 君を置きて

思ひつつあれば 生けりともなし


あまざかる ひなのあれのに きみをおきて

おもひつつあれば いけりともなし


天が遠い鄙の荒れ野に君を置き去りにして偲ぶだけなら生きた心地はしない


別の詠みをすれば


「あまざかる」は、「「あ」まさ刈る」

「ひなのあれのに」は、「あ」を刈るので「ひなのれのに」

「きみをおきて」は、「「きみ」を置きて」なので、二句は、「ひなのれのにきみ」となり、「鄙、告れ野に君」と、鄙びた此処で死を告げた君

「おもひつつあれば」は、「緒も秘伝つあれば」と、歌(緒)を伝えてゆけば

「いけりともなし」は、「生けりとも為し」と、生きてゆく


柿本人麻呂の歌を伝えて行くのだ