万葉集の額田王の歌から


原文

金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之

兎道乃宮子能 借五百磯所念


和訳

秋の野の 水草刈り葺き 宿れりし

兎道の宮処の 仮廬し思ほゆ


「水草(みくさ)」は、水草で、茅のこと

「兎道(うぢ)」は、宇治

「宮処(みやこ)」は、京、都

「仮廬(かりほ)」は、小屋


平仮名表記

あきののの みくさかりふき やどれりし

うぢのみやこの かりほしおもほゆ


意味

秋の野の茅を刈り取り屋根を葺いた宿に泊まった、宇治の京の仮りの屋敷が思い出される


別の詠みをすれば


「あきののの」は、「飽かの之の」と、満ち足りた

「みくさかりふき」は、「御軍駆り吹き」と、天皇の軍隊が追い立て繰り出し

「やどれりし」は、「宿れりし」と、占拠した

「うぢのみやこの」は、「宇治の宮処の」と、宇治の宮処の

「かりほしおもほゆ」は、「離り干し思ほゆ」と、途絶えて、涙も涸れて、感じられる


この歌は、かつて、この兎道に、天皇の軍隊が戦を仕掛け占拠した兎道の宮処を偲び詠んだものになる


「みくさ(御軍)」は、天皇の軍隊

「うぢ(兎道)」は、宇治の名前を冠した、兎道稚郎子(応神の子で仁徳の異母弟)が、この地に、兎道宮を営んだと伝えられている


日本書紀では、仁徳に皇位を譲るために自殺したと書かれているが、

古事記では、単なる夭折とされ、

播磨風土記には、兎道稚郎子を宇治天皇として記載されているようだ


これらのことは、皇位継承を巡る何らかの対立があった可能性を感じざるを得ない


額田王は、兎道稚郎子が、兎道天皇となるべきなのに仁徳に自殺に追い込まれたと詠んでいるようだ