須佐之男は九州北部から出雲に行き、出雲を属国扱いしていた越の勢力を打ち負かし、出雲の王となった
須佐之男の子孫は、日本海を東に勢力を拡大した
六代目の子孫の大国主命の時には、丹波や福井あたりにも勢力を拡大していたと思われる
戦いに明け暮れてはいたが、順調に東に支配地域を拡大している

この出雲の大国主命に王位の譲渡を迫り、軍事力でも、大国主命の子の建御名方神を打ち破り、出雲を手に入れた
大国主命は国譲りで服從した

遺跡からは、出雲から九州北部は交流があったと考えられている

出雲を改めて九州北部が征服する理由が見当たらない

九州北部の勢力が邪馬台国ならば、出雲の協力も得られるのだから、文化的経済的に劣ると思われる南の熊襲の襲来に脅威を感じるだろうか?

九州北部の倭国が分裂し、対立したならば、三世紀の九州北部に、何らかの戦いの痕跡が認められてよいはずだ

考古学の知見からは、
四世紀には、出雲の衰退と反して近畿大和が繁栄していったことが分かっている
ならば
出雲に国譲りさせた勢力は、近畿の勢力だ
だが、最初は、出雲の地で大国主命の代わりに統治を始めた
これなら、国譲りと天孫降臨という表現にも当てはまる

考古学的には、
出雲は四世紀に急速に力を失い、
一方、近畿大和は四世紀から急速に発展する
これは、近畿大和の崇神が軍事力で地方を従わせた記述と合致する

三世紀の出雲は、まだ一定の力を保持していた時代
近畿が倭国の中心に移行する前段階にあたる

倭国の中心は、二世紀には出雲だが、やがて三世紀には近江から近畿北部の山代、さらに、四世紀には近畿南部の大和へと移ったと考えてよいのではないか
邪馬台国の記述のある三世紀には、近畿北部の山代、つまり京都あたりが倭国の中心ではなかったのか

倭国は、東に領土を拡大している
なら、次は、三重から濃尾平野、さらに、東海や諏訪方面に進むはずだ
その拠点とするならば、近畿に拠点を持つのがよい
東に向かうなら、
陸路なら伊賀を越えるか、甲賀を越えるか、海路なら紀伊半島を迂回して伊勢湾に入る
近畿大和を拠点とするのが良さそうだ

時代は、日本海経済圏より、瀬戸内海から近畿を経て、東海へと繋がる経済圏へと比重が移って行く

二世紀の出雲と四世紀の近畿大和とをつなぐなら、近畿北部の山代が最適だ

欠史八代の系譜の前半は、国譲りと天孫降臨の出来事の部分

中盤は、倭国大乱と卑弥呼の擁立にあたる

後半は、この王統が、淀川の北から近畿大和を手中に入れ、近畿大和を本拠地にする部分

これなら、崇神以降に近畿大和を中心に支配領土を拡大することに繫がる

淀川の北側の邪馬台国の王となった王統に対して、神武の降臨の地の近畿大和を治める王が、正統性を主張し戦ったが敗れ去った出来事があったのだろう