日本史の歴史上の最大の謎が、邪馬台国にいた卑弥呼

謎を読み解くのは、面白い
ましてや、誰もが知る謎なら尚更だ
京都の山代が邪馬台国
多くの民を養える広い盆地の平野
王家の権力争いのただ中
国が安んじる一時
原始の京都の景色に、卑弥呼と台与は、何を想っただろう

古代への想いは、日本人の源流を遡る旅でもある
だが、「古事記」「日本書紀」「倭人伝」の記録は、現代人の視点からは、些か、心許ない
だから、様々な解釈が生まれる

また、
天照大御神の天の岩戸に隠れた話を日蝕で解釈したり、
人の寿命から、王の生きた時代を推定計算したり
発掘遺跡から記録の検証を試みたり
新たな遺跡が発見される度に、考古学的な知識は増えて行く

書籍やネット記事で、邪馬台国の考察を読んだりする
百人百様の解釈がある
こんなにも色々な説が出ていながら、曖昧模糊としているのが、楽しくも寂しくもある

犯罪捜査は、現場百回とか言われる
歴史、特に、卑弥呼の時代なら、「古事記」「日本書紀」「倭国伝」、百回だ

これらの史料を、文字通り、一元一句、その言葉通りに考えるのか
全くの空想ととらえるのか
史実に基づきながらも、口伝による伝承の過程で、脚色や齟齬、あるいは、書物として文字に記録する時に、何らかの意図に沿って編集されたものと考えるのか

人各々だからこそ、多様な解釈が生まれてきたと思う

どこか一部分の適合のみではなく、時の流れ、歴史を俯瞰して、全体が無理のないものとして、史料と遺跡の適合がなくてはならない

心掛けたのは、この、全体として無理のない解釈を求めることだ

さてさて、うちの日依姫は何してる?



「古事記」と「日本書紀」に先駆けて、「帝皇日継」と「先代旧辞」があった
主要な一族に伝わる記録であったようだが、現在、失われている

「先代旧事本紀」など、極々僅かではあるが、同時代の記録が残されてもいる

もしも、全ての書類が残され、比較検討がなされたなら、古代史の解明は、もっと進んでいたことだろう

でも、何故、他の記録は失われたのか
何らかの意図が働いてはいないのか?


倭国に中心は、北九州と奈良の大和であったことに違いはない

伊邪那岐の時代なら、北九州
崇神から仁徳の時代なら、大和
特に、倭五王の時代なら、北九州
また、継体以降も、大和

これに加えて、
須佐之男から大国主命の時代なら、出雲

でも
卑弥呼の時代には、丹波から山代の倭が女王国

奈良の大和が出雲を取り込む過程で、王位争いが勃発し、共立することになったがための苦肉の策

歴代の王は、支配地を広げると、都の位置を変える
奈良の大和は、日本の東に領土を広げるのに、適している

倭五王は、韓国の支配地を守るのに適した北九州を拠点にしている

丹波、山代の倭は、出雲でもなく、奈良の大和でもない
だから、共立するのに適した場所でもある

卑弥呼の生きた当時の組織力では、倭国全体を完全に掌握する力はなく、国単位の地域か、数個の国が纏まる程度の範囲が連合して広域支配する程度だったろう


事実は一つなだから、
幾つもある、異なる伝承を網羅的に集めるなら「一書曰く」の形式で、並列する「日本書紀」
もっとも確からしい事柄のみを記録するなら「古事記」形式
と考えている
でも、それが事実を記載したものかは、分からない
皆が皆、間違えている可能性もなくはない
それでも、そう間違えたことも、また、何らかの事を伝えているものなのかも知れない



卑弥呼のいた邪馬台国について、「魏志倭人伝」の記述から推定すると、記述の誤りについて、方位とするか距離するかで、近畿の大和(奈良)とするか、北九州(山門)とするかが大方の見方

基本的に、明治の初頭から、このこれ以上はっきりとしたことは分からない状態が続いている

遺跡の発掘からも決定打が出ないからだ

また、日本の「古事記」と「日本書紀」に、邪馬台国と卑弥呼の記録がない
他の史料にも、一切、記述がない

「古事記」や「日本書紀」には、卑弥呼や邪馬台国が書かれていないから、また、神話の記述は荒唐無稽だからという理由で顧みられてこなかった

何故、出てこないのか?