邪馬台国については

邪馬台国九州説
邪馬台国大和説
他に
邪馬台国吉備説
邪馬台国若狭説
邪馬台国阿波説
邪馬台国出雲説
とかもはあるが

邪馬台国丹波説はない
邪馬台国山代説はない

博多辺りと推定されている奴国は、20000戸
これに対して、
邪馬台国は、70000戸と2.5倍の大きさ
これだけの人口を養える西日本の場所は、

筑紫平野
山代の京都盆地
大坂平野
奈良盆地

当時の大坂は湿地が多い

京都盆地は、奈良盆地と似ている

出雲から丹波、更にその先へ進むなら、山代の京都になる

意富夜麻登久邇阿禮姫
夜麻登母母曾姫

山代の荏名津姫
山代の大筒木眞若王

孝安、孝霊の時代は、丹波から京都付近へ支配を広げた

さらに
孝元、開化の時代には

尾張、河内、旦波、山代、近江、木の国の姫と婚姻し、子や孫は、これらの地を治めるようになっている

台与の時代には、現在の
京都府、大阪府、滋賀県、愛知県の地域を支配下に治めている

卑弥呼の墓は、丹波から山代にかけての何処にあると思われる
特に京都市街地周辺なら、着目されて来てはいないから、まだ、未発見の可能性もあるが、

京都は、平安京が作られてから、日本の首都として、巨大な都市となり、開発と荒廃を繰り返してきた
その歴史の中で失われてしまった可能性もある



本説では、

邪馬台国は、丹波から京都のある山代に女王国

卑弥呼は、夜麻登登母母曾姫

台与は、意祁都姫

狗奴国は、大和にある邇藝速日の国

和国大乱は、幾つもの戦い
神武と邇藝速日との戦い
安寧による出雲の平定
懿徳の兄弟争い
孝安兄弟の争い
が続いたことを示している



今までには、考えられていない説

丹波は広い平野が少ない
しかし、その傍の京都盆地まで含めれば、多くの人口を養える
まさに、山大国ではないか

丹波は、最近こそ、古墳が多数あることが分かってきたが、それまで、認知されていない
ても、近年、古墳が認知され、多数あるし、巫女埴輪も出土している

丹波の隆盛は、開化の時代以降と考えられていて、年代が新しいのではないか
でも、突然に開化の時代に隆盛となったわけではなく、前身の国があったはずだ

丹波は広い、但馬と丹後と丹波をあ合わせて、京都府と兵庫県にまたがる
卑弥呼の時代には、丹波から京都へ進出し、倭であったのではないか

「魏志倭人伝」にも、水行十日と陸行一月をすると書いてある

ならば、
京都盆地辺りが相応しい
京都に進出していたのだ


「古事記」の半分程まで、歴史を進んできたので、休憩

ここでの解釈は、
「天津日継」という夜の王の祀と昼の王の政による二王制に基づいた解釈をしている

伊邪那岐と伊邪那美からの王家の血統で読み解いている

王家の尊称は継承されることで生じたと思われる混乱記事を再構築するべく努力した

地名の比定と名前の意味について、関連性を考慮して考察を行った

荒唐無稽な神話を人の国作りであるとの観点から解釈した


なお、
王朝の世代数と人の世代交代の年数から、卑弥呼の時代を推定すると、大体、「欠史八代」の時代が卑弥呼の時代になる

これまで
「台与」の名称については、殆ど、議論されてこなかったが一つの解釈を与えたものと考えている

邪馬台国の場所は、九州か大和かの二つが主流であったが、第三の可能性を示した

日本史の中の倭国の成り立ちについて、無理のない解釈であると思っている

考察に用いた史料は、「古事記」、「日本書紀」、「魏志倭人伝」という誰でもが読むことができる一級史料のみ

遺跡などの考古学的な知見との整合性については、検討を施していないので、検証ができるようならば、本論の補足或いは反証を踏まえて、修正を施してゆきたい



「古事記」にしても「日本書紀」に関しても、
中国の国書に書かれている
「卑弥呼」
「倭五王」
「阿毎多利思孤古」
のことが、書かれていない

あきらかに、
中国との関係性を対等なものとしていて、中国から倭王として認められた記録を残さないようにしている
だから
「倭国」の記録ではあるが、「日本国」の前身としての記録なのだ
もちろん、重複する部分が多い
でも、「倭国」の記録なのではない
だから
「古事記」であり「日本書紀」なのであり、「倭国書記」ではないのだ

でも、後の日本国を形成することに関わる倭国部分も記録にある
それを探せば、倭国が見えてくる