日本が大陸と繋がっていた時代に、中国南部から、または、朝鮮半島から、人類が渡ってきて住み着いた

その後、日本は大陸とは切り離された

日本海側は、対馬などを中継して大陸、特に、朝鮮半島と繋がりがあり、北九州、出雲、越、北陸に及ぶ生活圏ができ、縄文文化を作り上げる

大陸からの渡来人は、定期的に、日本列島にもやって来たことだろう

そして、そこに、伊邪那岐と伊邪那美の一族がやってきて、北九州に拠点を構える

大陸の技術を持ち込んだから、支配者には、容易になれたことだろう

進出するなら、九州全土、さらに、日本海側、さらに、瀬戸内海から近畿へと支配地域を広げるのが当然の流れだ

特に、住みやすい場所は、河口に比較的広い平野があること
河口から舟で、内陸に入れるなら、そこに、平らな盆地があること

これらの土地は、
九州なら、博多周辺、有明海側の筑紫平野、日向など
日本海側なら、出雲、丹波、近江、山代
瀬戸内海側なら、安芸、吉備、河内、奈良
東国なら、伊勢、尾張、駿河、相模

それらの土地には、先住民がいる
だから、領土を広げるなら、先住民との戦いが起こる

また、
当時は、交通があまり、発達していないから、地域の独立性が高い
武力制圧とともに、姻戚関係を結び、大きな地域連合を作る必要もあるだろう


東へ


出雲は
朝日の直刺す国、夕日の日照国

日当たりの良い土地が、五穀豊穣となる良い土地なのだ

日向も近畿大和も日が登り刺す国
日が刺す国ならば
出雲や丹波も、広い盆地の山代も奈良も日が登り刺す位置にある国だ

日当たりの良い土地、すなわち、穀物を安定的に大量に得られる場所を求め国作りを行った事が見えてくる


卑弥呼の時代、淀川水系を挟んで、二つの勢力が敵対した

近畿の北側の勢力(邪馬台国、倭国)
山代(女王国)、淡海、丹波、若狭、吉備


境界
琵琶湖である近い淡い海
淀川水系
河内湖
河内湾
大阪湾

近畿の南側の勢力(狗奴国、後の二本国)
奈良(大和)、紀伊、伊勢、尾張、三野


卑弥呼の死後、台与の時代以降、開化、崇神、垂仁と近畿大和の勢力が近畿を支配する


邪馬台国を推定する手がかりとしての史料は、やはり「古事記」と「日本書紀」になる

重要事項が幾つかある

倭国の統治制度

天津日継と言う言葉に象徴されるように、夜の王と昼の王が交代で国を治める
「記紀」の中にも、この二王制度を伺わせるものがある

伊邪那岐と伊邪那美
天照大御神と月読命と須佐之男命

大国主命と少名毘古那神
大国主命と大年神

卑弥呼と弟王

若帯日子命と倭健命と五百木入日子命
大山守命と大雀命と宇遅能和紀郎子

二人の王が統治する体制が伺える
また、王家の王統も、日本国を確立した近畿大和の王家以外の別の倭国の王家の王統があるはずだ
その片鱗が、「記紀」に記されているかを探すことになる

王家の血統

王家と呼べる血筋は、「古事記」や「日本書紀」に系譜が記録されている

須佐之男命から大国主命へと続く系統
須佐之男命から大年神へと続く系統
天照大御神から神武から崇神、さらに、その子孫へと続く系統

王統の名

天照大御神の子孫は、火(日)を名前に付ける

天忍穂(ほ)耳
日子番(ほ)能邇邇藝
火(ひ)遠理命
天津日(ひ)高日(ひ)子波限建鵜葺草葺不合

親から子へ、重要な字を受け継ぐのだ
だから、他の王統でも、名が受け継がれている可能性がある

王統ではなくとも、

大国主命
吉備津彦
武内宿禰
などは、役職を表す名と捉えることもできる
親から子へ、その地域の王統が受け継がれたから、同じ役職名で呼ばれたものだろう

地域支配の推定

王は、差配した土地の有力者の娘を娶る

須佐之男命は、出雲を支配し、その土地の姫の櫛稲田姫を娶る

神武は、近畿大和を支配し、その土地の伊須気余理姫を娶る

だから、どこから姫を娶っているかで、支配地域、もしくは、良好な関係の地域を類推できる
敵対する国の姫を娶ることはできない


開化の子の崇神から、近畿大和を拠点に、垂仁、景行、倭健命と支配地域を、東は相模、武蔵迄、西は、九州や出雲に迄、拡大させた

しかし、仲哀の時、后で大年神の血筋の息長帯姫と武内宿禰によって仲哀は殺され、近畿大和を拠点とする応神以降武烈迄の王統は、弱体化させられてゆく

代わって、北九州を拠点に、武内宿禰の血を-受け継ぐ王統が、中国からの将軍の位を授かり、韓国経営に乗り出す

倭の五王は
千熊長彦
葛城長江襲津彦
紀小弓
紀大磐
紀生磐
である


近畿大和の男の子の王が、武烈で途絶えた
そこに、丹波や近江を支配下に持ち、大年神と近畿大和の王家の血筋の継体が、近畿大和に進出
さらに
韓国経営の戦いで疲弊した九州の紀磐井をも倒し、倭国を再統一した


「古事記」と「日本書紀」は、日本国の歴史だから、九州の倭国のことが軽視されている

倭国は、中国に国王として任命された形を、権力の正統性としたので、日本国が中国と対等の関係を構築するのには障害となる
だから、中国の記録にある邪馬台国の卑弥呼や倭五王の存在を曖昧に記録した

武内宿禰と息長帯姫の策略があったが、これを隠蔽するため、九州の記録を曖昧にした


継体の子孫は、九州の王家の蘇我一族との融合を図る
しかし
蘇我一族も、馬子から蝦夷、入鹿と続く本家に対して、倉山田石川麻呂が反逆し、乙巳の変以降、天智、天武、持統と継体の血筋と蘇我の血筋が融合
国家としても、それまでの昼と夜の二王制から、律令国家へ、国名も、倭国から日本国へと変化してゆく


日本は、「倭国」から「日本国」へ
王統も、「須佐之男命」の血統から「天照大御神」へ
中心地も、「北九州」から「近畿」へ
王制も、二人王から一人王へ
政治も、独立性した小国の連合から一つの律令制度による統合へ


「記紀」の読み解きで、見えてきた倭国の変遷は、北九州から出雲、丹波、越にかけての日本海側の国家連合と、新たな勢力である河内、近畿大和、伊勢、尾張、三野にかけての国家連合だ

この二つの勢力の戦いと、それぞれの王統の跡継係争が、倭国大乱を生み出した

「記紀」に、系譜が掲載されているのは、須佐之男命から続く王統と、神武からの王統の二つの系譜のみだというこが、倭国の時代には、倭国の王となり得る二つの王統が存在することを暗示している

大乱を収めるのには、二つの勢力の血筋をを受け継ぐ卑弥呼が共立された、てて考える
また、
卑弥呼亡き後には、五穀豊穣を祈る大気津姫の機能を受け継いだ大年神の子孫の意祁都姫が台与であると考えた

その後、倭国は意祁都姫の子孫の紀一族が倭の王統として九州で発展する
近畿大和は、崇神以降、発展する

この二つの王統を統合したのが、継体の王統になる

この考えは、広い意味では、従来から提唱されている九州邪馬台国と原大和国の併存論に含まれる

ただ、この二つの勢力の接点としての北近畿、つまり、丹波、山代、近江、若狭の地域の重要性について改めて認識することになった

山代には、広い京都盆地があり、日本海側からのルート、瀬戸内海からのルートと二つの経路を持ち、広い盆地を有する
さらに、伊勢、尾張、美濃から東国への領土拡大にも都合が良い立地にある

だから、近畿大和の王統も平城京から平安京に遷都し、その後、明治時代に至るまで、日本の首都となり得た

今まで、注目されなかったのが不思議な位に重要な土地だ

しかも、息長帯姫や継体の出身の土地であるばかりか、卑弥呼や台与との関連性が見えてきたのだ

北の山代の弟国と南の近畿大和とは、淀川水系で隔たれている
当時は、河内平野には海水が入り込み、河内湾、河内湖を形成し、その周辺も湿地帯だった
弟国のあった長岡京市から北の地域が住居に適していた


報告概要

帥升は、須佐之男命

邪馬台国は、北近畿の山代
卑弥呼は、夜麻登登母母曾姫
台与は、意祁都姫
卑弥弓呼は、天押帯日子命

倭王讃は、千熊長彦、または、職麻那那加躓、または、沙沙奴躓
倭王珍は、葛城襲津彦または、沙至比躓
倭王済は、紀小弓、または、阿礼奴躓
倭王興は、紀大磐(紀小弓の子)
倭王武は、紀生磐

阿毎多利思比孤は、蘇我馬子

彼ら、倭国の王は、須佐之男命、大国主命、大年神の王家の血筋の王と思われる

調査期間

2022年10月〜12月

調査費用

僅かな本代

読み解きに用いた書籍を掲載する

「倭国伝」全訳注、藤堂明保、竹田晃、影山輝國、講談社学術文庫
「古事記」校注、倉野憲司、岩波文庫
「日本書紀」全現代語訳、宇治谷孟、講談社学術文庫