アファーマティブアクションとは、大学等の入学等においてマイノリティーを優遇する制度だ。

 

1996年、白人女性のバーバラ・グリッターがミシガン州立大学ロースクルの入試で、自分より成績の悪いマイノリティーが合格して自分が不合格になったのは不当だと大学を訴えた。

 

誤解してはならないのは、マイノリティーが優遇されるのは貧富の差の解消ではないということだ。

白人女性の方がマイノリティーよりも貧しくとも、マイノリティーが優遇される。

 

連邦最高裁は、学生集団の多様性は大きな公共の利益であると説き、合否は学業成績のみで決めるものではなく提出されてエッセイや推薦文などで総合評価して決められる。マイノリティーか否かは総合評価の一要素に過ぎないので大学の措置は正当だと判断した。

 

ところが、同じミシガン州立大学の人文科学芸術学部は、マイノリティーの受験者に自動的に20点を加点していた。これに対しては、連邦最高裁は大学側を敗訴させた。

 

総合評価の一要素としてのマイノリティー優遇は許されるが、自動的に加点をするのは許されないとするのが連邦最高裁の判断だ。

 

しかし、私はこの姿勢には大いに疑問を抱いている。

 

学生集団の多様性が大きな公共の利益だというのであれば、総合評価の一要素であろうが加点であろうが、選考手続に違いがあるだけだ。

 

もっと言ってしまえば、自分が受験する際、マジョリティー枠の最低点をクリアしなければならないと事前にわかっていた方が出願も容易だし不合格になった時にも納得がいくのではないだろうか?

総合評価などという曖昧な基準で決められるよりも納得感が得られるのではないかと、私は考えている。

 

クオーター制とは、議会や企業の役員における一定比率を女性に割り当てる制度だ。

現在、欧米のもならずメキシコ等でも採用されており、採用していない日本は世界的には少数派だ。

 

議会の多様性という意味ではアファーマティブアクションと同じだが、とりわけ議会については別の大きな理由が示されている。

つまり、立法府である議会は主権者である国民の意思から乖離しすぎてはいけない。国民の意思と乖離しすぎると「議会の正統性」が失われるというのが大きな理由だ。

主権者の半数は女性なので、女性の意思と乖離しすぎる議会は「正統性」を失うと説く。

 

ただ、この理由に関しては、多くの異論がある。

「女性の議員が増えたからといって、女性の意見が立法に反映されるとは限らない」という意見が多く見られた。

私自身、Facebook等で賛否を訊ねたところ、男性だけでなく女性からもクオーター制に反対する声が寄せられた。

ほとんどの女性がクオーター制に賛成すると予想していただけに、意外な結果になった。

 

あなたはどう考えるだろうか?