「その数学が戦略を決める」(イアン・エアーズ著 文藝春秋 原書、訳書共2007年出版)には、同書出版以前に「絶対数学」という分野が様々な分野の専門家をことごとく凌駕している様子が書かれています。

 

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連邦最高裁の判決結果の予想について、法律の専門家たちはそれほど複雑ではないフローチャートを用いた分析結果にボロ負け。臨床心理学者、企業の購買担当の専門家もことごとく敗れています。

ワインの品質や医療分野に至るまで、ことごとく「絶対数学」が勝利を収めているのです。

 

専門的判断や予想に関して、人間が「絶対数学」に勝てない理由を、同書は次のように述べています。

 

まず、人間には認知の偏りがあるという点を挙げています。

ほとんどの人は、家の中に銃があると子供に危険だと思います。しかし、「平均的に見ると、銃を持っていて裏庭にプールのある家では、子供はプールで死ぬ確率の方が1000倍近く高い」とのこと。プールの方が銃よりもはるかに子供にとって危険だというのが事実です。

 

次に、人間はとかく自信過剰であるという点を挙げています。

例えば、「モーツアルトが生まれたのは何年?( )年〜( )年」「ナイル川は何キロ?( )キロ〜( )キロ」という類の問題が10個並べられていました。

正答を9個から10個含むような範囲を挙げた人はたった1%で、残りの99%の人は自信過剰だと説くのです。

 

なぜだかわかりますか?

モーツアルトの生まれた年の回答欄に「紀元前33年〜1990年」と書けば正解になります。ナイル側だって「1キロ〜100万キロ」とでも書いておけば正解になるのです。つまり、まったく予備知識がなく自信のない人たちはとてつもなく広い範囲で回答するけど、いささかでも自信過剰な人は勝手に範囲を狭くして不正解となるのです。

 

数字はこのような先入観や偏見、認知の偏りを持たないので、人間より正しい判断ができるのです。実際、機械が「NO」と言っているのに、人間の判断で凶悪な囚人を仮釈放してしまったために大変なことになってしまった例がありました。

 

では、人間と機械の共同作業が望ましいのではないかというと、「人間単独でやる」よりはマシだけど「機械単独でやる」場合には劣るそうです。

最終的に人間に残された「やるべきこと」は、関連性のありそうなデータを入力することだけで、それ以外の専門的な判断、裁判の判決、医療の診断、経営判断…等々は全面的に機械を信頼すべきだという結果が示されています。

 

専門家たちがこの結果に反対することに関しては、次のような記述がなされています。

 

なぜ臨床心理学者たちは、彼らの直感的な判断や予測が、あるルールに基づいた判断や予測にくらべていい線まではくるとはいえ、決してそれを超えることではないという発見に対して腹を立てるのだろう。人間の優れた資格認知力が、各種状況で道具(郷里測定器、望遠鏡、顕微鏡)によって改善されると知っても腹を立てる人はいない。答えは、その道具が事務員(つまり専門的な訓練のない人々)にも使えてしまうということのようだ。心理学者たちがその程度でしかないとしたら、それは心理学者の地位を貶めるものとなるからだ。

 

さて、今日、AIが人間の仕事を奪うのではないかと危惧されています。

真っ先に仕事を奪われるのは、医師、裁判官、経営者、学者などの専門職だということを同書は示唆しています。私も従来から同意見です。

専門知識という存在は、やがて望遠鏡や顕微鏡のようなお手軽な道具に取って代わられるからです。

機械が(専門家である)職人の仕事を奪った歴史を顧みれば、何ら不思議な事ではありません。

 

でも大丈夫ですよ。データ入力という仕事だけは残りますから。「データ入力専門家」というのが、われわれ専門家が生き残る唯一の道かもしれませんね(笑)