最近、米国の若者たちの間で格差が拡大しているという記事を読みました。


大学教育を受けることを最初から諦めている若者たちは、刹那的な楽しみを求めて多数の相手とセックスをし、性病に罹患したり望まれない子どもを産んでは、ますます上の階層に上がれなくなってしまう。

結婚相手も同じように「希望を持てない」異性で、経済的事情や乱れた生活が原因となって離婚に至るケースが多い。

残された子どもたちは、同じように「希望を持てない」子どもとして成育する。



恵まれた若者たちは、自分のキャリアを維持するために奔放なセックスから一歩も二歩も身を引いて(場合によっては「草食化」し)、ライフコースをしっかり上っていき、同じ境遇の異性と幸福な結婚をする。

夫婦共に(稼ぐ力を含めた)財力があることから、結婚は双方にとって保険の機能を果たし、生活は安定する。

子どもたちには愛情を注ぎ、子どもたちは「希望の持てる」人生を歩む。


これを読んでいて、はたと日本の現状に目が向きました。


奔放なセックスをしては望まれない子どもを産む高校生が目立つようになる反面、草食系男子も存在します。

もちろん、草食系女子もいるのでしょう。

米国と違って大学教育は必ずしも上の階層へのパスポートにはなっていませんが、大学の乱立状態を見れば納得できます。

お金があれば、九九ができなくても大歓迎してくれる大学に教育効果は望めません。


「希望を持てない」若者たちの間にできた子どもたちは、「希望を持てない」子どもとして育ち、愛情を注がれた財力のある夫婦の間にできた子どもたちは「希望の持てる」人生を歩むことになるのでしょうか?


子どもは親を選べません。

このような格差の固定はとても悲しいことです。


もっとも、日本では、たとえアルバイトであってもバイト先の会社の経営陣に入る人たちがいます。

夫婦共に非正規社員でも、夫婦で寄り添ってささやかな幸福を満喫している人たちもいます。

希望を捨てて投げやりにならなければ、上にいくチャンスもあるし、それなりに幸福な人生を歩むことができることを彼ら彼女らは証明してくれています。


正社員になって長時間労働を強いられて子どもの顔も見ることができない生活より、非正規社員やアルバイトであっても子どもに愛情を注ぐ生活のほうが素晴らしいかもしれません。


最近、ピケティ氏に影響されて格差議論が盛んになっています。

国全体や社会全体を考えるのにはとてもいいきっかけでありましょう。


しかし、自分の足下を見ることを忘れている人がたくさんいるような気がしてなりません。

自分だけでなく身近な人たちや子どもたちに、「希望を捨てず、決して投げやりにならない」ことの重要性を教えることが大切だと痛感しています。