夫婦の家事分担を経済学的に考えてみます。


経済学では「比較優位」の原則というものがあります。


これは、次のような例で説明されることが多いでしょう。


A国とB国があったとして、生産財は自動車と小麦だとしましょう。


A国では、従事者10人で1日に自動車5台生産することができ、同じように10人で1日10キロの小麦を生産できます。


B国でな、従事者10人で1日に自動車2台生産することができ、同じように10人で1日5キロの小麦を生産できます。


つまり、自動車生産能力も小麦生産能力もA国のほうがB国よりも勝ってるのです。

一見、A国としてはB国と貿易をするメリットがないように感じますが、A国が価格の高い自動車生産に集中してB国が小麦生産に集中すれば、貿易によって両国のメリットが最大になるのです。


一時間あたり100ドル稼げる弁護士が、自分の半分のスピードでしかタイプを打てないタイピストを時給10ドルで雇うという例も、よく挙げられますよね。

弁護士がタイプを打つ時間をコアな仕事に充てれば一時間で100ドル稼げます。

タイピストを時給10ドルで雇えば、一時間当たり差し引き90ドルのプラスになるという説明です。


この比較優位」の原則を夫婦間の家事分担に当てはめるとどうなるでしょう?


妻がベストセラー小説家で、彼女が一時間原稿を書けば10万円の収入があると仮定しましょう。

夫が外で働いて得られる収入が時給1500円だとしたら、時給2000円のお手伝いさんを雇うより、夫が家事に専念して妻の執筆時間を確保した方が夫婦共にメリットが大きくなりますよね。


では、子育ても夫が専念した方がいいのでしょうか?


子育てと家事の決定的な違いは、子育ては一種の”投資”だということです。

子どもにどれだけ愛情と教育を投資するかによって、子どもの将来は変わってくるでしょう(おそらく)。

子どもから得られるリターンは、金銭的なものだけでなく幸福感という非金銭的なものもあります。

投資が失敗すると、子どもは家庭内でも家庭外でも荒れてしまって、リターンどころか大変な損失をもたらすかもしれません。不幸な気持ちという非金銭的なものも伴います。


このように、将来的に不確実性の高い(リスクの高い)子育てという”投資”は、「比較優位」の原則ではなかなか解決が付かないものでありましょう。

余談ながら、日本国は子どもたちに対する投資を軽視し過ぎてているのではないでしょうか?

日本における子どもの貧困率が6人に1人にのぼっているのは、子どもたちへの投資が貧弱な証拠です。

将来が不安になります。

同じ社会的弱者である老人が年金や医療で手厚く保護されているのは選挙権を持っているからだと考えざるを得ません。


子どもがいない場合であっても、限界利益の高い妻(追加一時間あたり10万円の収入)の時間をすべて執筆に回すのは現実的じゃないかもしれません。

小説が売れたくなってしまったら、家事能力ゼロの妻は夫に見限られる恐れもあります。

低姿勢で家事能力に長けた夫は、売れっ子女性マンガ家に引っ張られるかもしれませんね。


最初に挙げたA国とB国の貿易関係にしても、A国とB国が敵対してしまったら、自動車生産に集中していたA国は突如として食糧難に見舞われるかもしれません。


妻にしてもA国にしても、1割くらいは家事(A国は小麦の生産)に割いた方が無難でしょう。

国の食糧自給も同じように考えることができます。

エネルギー政策も同じで、原油、天然ガスの輸入のみに依存するのは危険で、原子力も必要でしょう(原理主義的、感情的な反対はあるかもしれませんが)。


それでも経済学の素晴らしいところは、原則を教えてくれることだと思います。


夫婦の例でいえば、妻の執筆時間をできるだけ確保する方がメリットが高いという原則が与えられます。

その原則を睨みつつ事情に応じて修正してけばいい訳です。

判断のスタート地点が得られるのが経済学的発想の大きなメリットでしょう。