この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。

人の命はいつ絶えるかわかりません。

私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。


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桜が狂い咲きした年のGW明けからぼくは仕事に戻った。

熱が下がったのと右耳の難聴が治ったらだ。


しかし、微熱(37度少し)が残っていたので、額に青い冷えピタを貼って仕事をした。

周囲から見ればとても異様な光景だったに違いないが、それまで約2ヶ月間ずっと冷えピタを貼っていたぼくにとっては何の違和感もなかった。

事務所に鏡があったらそうはいかなかろう。

イタリア製のスーツに身を包みロレックスを左手首にまいた弁護士が、冷えピタを額に貼ってBMWで裁判所に乗り付ける姿を今になって想像すると・・・とてもクールだ(笑)。


ただ、体が次第にだるくなり、ものすごい疲労感が出るようになってきた。

時々、三百合さんが気を利かせて

「先生、生姜持ってきましょうか?」

と尋ねてくれたので、生生姜スライスをかじって元気回復に努めた。

もはや、1日に2度、リタリンを服用しないと普通の仕事もできなくなってしまった。

事務所の中で突然、意識がもうろうとしだしたので、またしても医師に診断書を書いてもらって自宅療養を再会することになった。

あまりに病気による期日延期をしていたので、怒った相手方弁護士が「きちっとした診断書を出せ!」と要求してくることが時々あったようだ。

事務所から自宅に送られる連絡用のファックスに書かれていた。


相手にも裁判所にもぼくの依頼者にもご迷惑をかけてはいけない。

名古屋の富岡法律特許事務所で弁護士をやっている高橋さんにムリを言って、手持ち事件を引き継いでもらうことにした。

顧問先にも、

「(病名不明ながら)かくかくしかじかの理由で信頼できる優秀な高橋弁護士に引き継ぎさせていただきました。きっと、私以上にお役に立てるものと確信しております。私との顧問契約は残念ながら解除していただくしかありませんが、何卒、高橋弁護士と新たな顧問契約を結んでいただければ幸いです」

という手紙を出して、事実上閉鎖準備に入った。


当時は、三重県伊勢市でイソ弁をやってくれるという若手弁護士はいなかったと思ったし(もしかして本格的に探せばいたかもしれない)、何といっても依頼者や顧問先はぼくという個人を信頼して任せてくれているので、代わりが効かないことはわかっていた。


余談になるけど、属人性の極めて高い医師や弁護士は本人が動かなければ仕事が回っていかない職業だ。

司法書士さんや税理士さん、はたまた一級建築士さんのような仕事は、極論すれば有資格者が植物状態であっても、事務的な仕事はできる。

特に、司法書士さんや税理士さんのように、一般から見て定型的な仕事(つまり資格があれば仕事内容は同じだと見られることが多い仕事・・・本当はそうじゃないのだけど)は、有資格者が生きてさえいれば事務員さんだけでも仕事ができる。

現に、税理士間では、稀にではあるけど顧問先の一括売買がなされたという話を耳にしたし、山崎先生(司法書士)が亡くなられた時に司法書士会から一番最初に入った電話は「手持ちの案件を処理しないように」というお達しだったと、辻くんが涙ながらに語っていた。


希望を抱いて開業し、いつの間にか「秒刻み」で働いてくようになって10年以上、念願だった最強の法律事務所が出来上がった頂点での閉鎖だ。

本来だったらしみじみと悲嘆に暮れるところだろうけど、幸か不幸か激務から解放されたぼくは心底ホッとした。

毎日、夕方になると学校から帰ってくる娘の勉強を見るのと遊ぶのが唯一の楽しみだった。

小学4年生になった娘は、自転車で5分のところにある「EISU」という補修塾(?)に週に2回通っており、親子で楽しみながら勉強したおかげで伊勢市圏内で首位をキープし、中日新聞の塾の折り込み広告に掲載される成績優秀者にも名を連ねた。

都会の子どもたちはきっと英語の勉強をしているんだと思って、4週間で完成する英検5級のテキストと問題集を買ってきて一緒に勉強し、娘は合格最低点より7点も上の成績で合格した。

途中でぼくが驚いたのは問題集を解く段になって、娘がニヤニヤしながら「お父さん。これまったく読めんぜよ」と呟いた時だった。

何と娘は学校でローマ字を習っていなかったのだ!

そこを何とかするのが方法論の大家(?)たる私の役目。

しっかり4週間で何とかなってしまった。


このように書くと、娘はとても勉強しているように感じるかもしれないが、日々の勉強時間はせいぜい1時間くらいで、娘の部屋の後ろに椅子を持ってきたぼくがスティングリッツの「入門経済学」やJapanTimesを読みながら見張っていて、終わった後におさらいをするくらいだった。

残った時間は、当時飼い始めたばかりの愛犬のコーギーと遊んだり、自宅から歩いて行ける書店に通っては好きな本を何冊でも買ってあげたり、イオンに行って格闘ゲームの他流試合をさせたり、ゆっくりと夕飯を食べながら借りてきたDVDを見たりして過ごした。

VHSからDVDに変わった時、娘は鮮明な画像に驚いた。

当時、よく借りていた「やまとなでしこ」に出ていた松嶋菜々子さんの顔の小じわまでくっきり見えて、「わあ!小じわまでしっかり見える」と嬉々として騒いでいた(^^;)


ぼくは、朝起きると(落合信彦氏の著書で書かれていた)ギデオン教会の聖書を音読し、冷えピタをしながら近くの書店で買ってきた本を読んでいた。

ただ、誇張でも何でもなく、手足の上げ下げをするのも苦労するありさまだった。

慢性疲労症候群じゃないかと指摘されて、かの名医の小野くんに頼んで血液サンプルをアメリカに送って調べてもらったが、異常なしとのこと。

ようやく、パニック障害に関する書籍が出回るようになったけど、微熱とすごい倦怠感はパニック障害とは関係ないようだ。


様々な本を読んでいると、和田秀樹先生をはじめとして「ゆとり教育」についての反対論が強く主張されていて、娘の将来に危機感を感じるようになった。

この時点でのぼくの金融資産は約3億円。

事務所内乱以降、正直申告をし続けて蓄えたお金だ。

10年超平均的弁護士の10倍以上の仕事をこなしてきたが、累進課税は過酷で、短期間にたくさん稼いだせいで残ったのは約3億円だ。

これが高いか安いかは読者によって別れるところだろう。

デフレ前だったけど、このお金があれば慎ましく暮らせば家族三人十分暮らしていける。

地元の公立中学校(ぼく自身の母校だ)は幸いにして歩いてすぐ近くの小山の上にあるし、これまたぼくの母校の高校は中学校のすぐお隣だ(少しだけ山の上にある)。

しかし、ゆとり教育か・・・。


その年の12月に入って、ネットで東京の中学受験学習塾を探し回った。

たくさんあったけど、経営者の顔がしっかり出ていて信頼できる顔だとわかったぼくは(仕事柄、人相を読む方法も書籍で学習したり経験にあてはめたりして、かなりの精度があると確信している)、その顔の社長宛手紙を書いた。

「慎ましく生活していけば家族が暮らしていけるお金は幸い持っています。しかし、娘の将来を考えると不安であります。どうか、冬休みの冬期講習に参加させていただき、東京の学習塾の最高の授業を受けさせて下さい」

という図々しいにも程がある趣旨の手紙だ。

宛先は、早稲田アカデミーの須野田誠社長。


須野田社長ご本人から電話をいただいて驚いたのは数日後のこと。

早速、東京の中野駅から歩いて10分のマンションという名のアパートを契約した。

ホテルやウイークリーマンションを使用するより、伊勢に帰ると決めたら解約して帰ってきた方が安価だった。

家具はレンタル。

娘に冬期講習を受けさせるべく、冷えピタを額に貼ったぼくと家内と娘は東京行きの電車に乗った。


(つづく)


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