この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。
人の命はいつ絶えるかわかりません。
私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。
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大親友にして大恩人だった山崎先生が亡くなった。
高校の同級生で大学1年の時によく酒を飲んだ友人の辻くんが大声で泣いていた。
彼は、会社が倒産する寸前に退職して、事前に取っておいた社労士の資格を生かすために、当時山崎事務所で修行していたのだ。
山崎先生も先生の奥さんも社労士の資格を持っていて、特に奥さんは社労士活動に力を注いでいた。
(ちなみに、辻くんは後に独立して積極的に営業活動を行った結果、今では2000万円くらいの年間収入があるらしい)
山崎先生との間を仲介してくれた税理士の池田先生も告別式で涙を流しておられたと、辻くんから聞いた。
多くの人々が涙した。
ぼくは、それまでの過去を振り返った。
野村投信時代にとてもお世話になった足立さんが急逝した。
長銀渋谷支店時代に同期で机を並べて仕事をし、寮も同じだったことから遊びも一緒だった大親友の川村くんも、長銀破綻の時に亡くなったとタマくんから聞いてしばらく立ち上げれなくなった。
そして、今度は山崎先生が突然亡くなった。
いい人ばかりが、突然亡くなってしまう。
人生のはかなさをしみじみと感じた。
山崎先生亡き後、ぼくはますます「うつ」状態が出るようになった。
自殺したいと本気で思ったことが何度あったことか・・・。
苦しかった。
死んでしまった方が楽だと思うことが何度もあった。
(後日わかったことだけど、パニック障害は「抑うつ状態」を引き起こすそうで、投薬治療には抗うつ薬が多いそうだ)
石材店をしている高校の同級生の中村くんと飲んだとき、
「ぼくが死んだら西洋風の平たい墓石にして”娘を心から愛し、社会正義の実現にほんのささやかな貢献をした男ここに眠る”と書いてくれ」
と頼んだ。
中村くんは、きっと冗談だと思っていたに違いない。
なにせ、夜、しっかり酒を飲んでいて見た目は全く元気だったのだから。
抗うつ剤、抗不安剤、睡眠導入剤・・・を服用し、いざという時ノリタリンも服用を続けた。
仕事は丁寧かつ一生懸命やっていたので、依頼は増えるばかりだった。
高額納税者番付の伊勢税務署館内で11位を2度もいただいた。
(10位以内だと、中日新聞以外の全国紙の地方版でも出たそうだ)
当時は、高額納税者の掲載は国からの感謝を込めた表彰と思っていたが、本当の意図は贅沢な暮らしをしているのに高額納税者に載っていない人を周りの人から報告してもらうという制度だそうだ。
幼い娘やその友達、高校の同級生の西村くんの娘さんがぼくと遊んでくれて、本当に精神的に支えになった。
ちなみに、西村くんの娘さんは聴覚障害者で意思疎通が難しい。
にもかかわらず、とても明るい性格で娘の大親友になってくれ、ぼくともよく遊んでくれた。
今は立派な社会人になっているそうだ。
ある日、地元で大きな会社の破産事件を受けることになった。
あまりにも規模が大きすぎたので逃げたかったけど、顧問先会社だったので受任するしかなかった。
その会社にいた高校の同級生の堤原くんが、実に冷静沈着かつ実行力をもって破産申立手続に協力してくれたおかげで、何とか無事申立をすることができた。
しかし、緊張の連続でぼくは毎日リタリンを服用するようになった。
三百合さんも家内もがんばってくれた。
リタリンの反作用で食欲がなくなったことを医師に告げると、
「生姜を食べて下さい」
と言われた。
「え、生姜って、あの生姜ですか?」
「ええ、スーパーに売ってる普通の生姜です。それを皮をむいて生で食べて下さい。生姜は漢方薬の大黒柱になっているくらいです。すべての漢方薬に含まれているのです」
ぼくは、何となく納得したようなしないような気持ちで、家内に生姜スライスを作ってもらい、事務所の冷蔵庫にも入れておいて頻繁に口にした。
確かに食欲はかなり回復したし、気が付いたら風邪をひかなくなった。
もう体が限界だと思ったぼくは、回復を期して医師に頼んで「静養1ヶ月を要する」という診断書を書いてもらい、1ヶ月の休みを取ることにした。
休みはじめた当初は、
「ああ、今の時間、みんな働いているんだろうなあ。ブラブラしていていいのだろうか・・・」
と、伊勢神宮や朝熊山に車で連れて行ってくれた家内に口走っていた。
休みだして数日後、突然、40度近い熱が出た。
ぼくは平熱が低いので、37度近くなると厳しい。
それまでのぼくの記憶では、38度以上の熱を出したことはなかった。
それが一気に40度近くだ。
高校の同級生で、尊敬すべき医師の小野くんの診療所に家内に連れて行ってもらい診てもらったところ、
「どうやら、自律神経の問題のようだな~」
「体は悪くないのかい。でも40度も熱が出たら脳がバカになるんじゃない?」
「大丈夫だ。もう少し高熱にならないと脳はバカにならないよ」
ということで、体に異常が見られないまま高熱で帰宅した。
その間、事務所は三百合さん一人で守ってくれた。
途中で、司法試験受験時代の友人で名古屋で弁護士をしている高橋さんが頻繁に伊勢まで来てくれて、仕事を引き継いでくれた。
三百合さんと高橋さんには本当にお世話になってしまい、感謝の言葉もないほどだ。
高熱のせいか、右耳が聞こえにくくなった。
重い体をひきずって耳鼻科に行き、鼻から入れる内視鏡検査をしてもらったりして、当面の薬を処方してもらった。
ぼくは、右耳があまり聞こえない状態で、リビングのソファに横になりアイスノン(らしき氷枕)と冷えピタを額に貼って音楽を聴きながら小学生になった娘の帰りを待つ毎日を送った。
その当時も、毎日、事務所から自宅にファックスが届き、顧問先等の重要なお客様に限って自宅から電話を架けて対応した。
3月下旬から4月上旬まで桜が咲き続けた年だった。
(つづく)
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