この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。

人の命はいつ絶えるかわかりません。

私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。


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リタリンという強力な薬を処方されたぼくは、いざという時にとても強くなった。

しかし、リタリンが切れるととてもだるくてやる気を失うという状態になる。

それはそうだろう。

薬で無理矢理に集中力を高めているのだから、その分の反作用が出るのは当たり前のことだ。

反作用が出ているときは、食欲がなくなりただただ”だるく”なり、うつ状態になってしまう。


当時ぼくが服用していたのは、医師に処方された、抗うつ剤と抗不安剤と催眠導入剤、そしていざという時のリタリンだった。

投薬治療に定期的に通い、仕事は秒刻み(山崎先生の言葉)でこなし、毎日夕方には娘を幼稚園に迎えに行くというのがぼくの日課だった。

そのような状態が無事に続き、仕事も順調にこなしていった。

もっとも、うつの症状が出る頻度は以前より多くなり、将来に対する不安で眠れなくなったり、朝早くに目が覚めたりした(後で知ったことだけど、これは「早朝覚醒」という「うつ病」の症状の一種だった)。

午前中は元気が出なくて、夕方が近づくにつれて元気になってくるという「気分の日内変動」も起こった。


大親友の山崎先生(司法書士)が結婚し、披露宴で次のような趣旨の判決文を読むというスピーチをした。


「新郎は新婦の献身的な努力や愛情を全く評価せず、その行動は横暴を究め、酌量の余地は全くないので極刑に処することにする。ただし、新郎の行為は新婦に対する不器用な愛情表現とも見てとれる。よって、刑の執行を猶予し、終身、新婦の保護観察に付することにする」


山崎先生の披露宴では、中野先生も得意の歌を披露した。


やがて、伸子さんもイケメンのスポーツマンと結婚することになり、初めて新婦側の主賓になった。

教会の結婚式では、伸子さんのお姉さまに新郎の友人と間違われ、「新郎のお友達は右側の席に着いて下さい」と注意された。

20代半ばの新郎の友人たちと同じくらいの年齢だと間違ってもらって、内心ぼくはとてもうれしかった(笑)。

スピーチでは、

「私は主賓としてこのようなおめでたい場でお話しするのは生まれて初めてです。反対の場面には数限りなく立ち会っているのですが・・・」

と口走って、会場を凍りつかせるという大失態をやってしまった。


このように、おめでたい事がたくさん続いた一見平穏な日々だったけど、心の調子は次第に悪くなっていった。

自律訓練法や訳のわからない器機を買ったりしてあれこれ試してみたが、どれひとつとして決定打にはならなかった。

(だから、ぼくは、自律訓練法や認知行動療法その他様々な方法に関して、とても詳しくなってしまった)

ある朝、全身の痙攣が起きて止まらなくなって気分が重すぎたため、病院にいる医師に電話して「死にたいです」と口走った。

「すぐ来い」という医師の指示で病院に直行したぼくは、医師に打ってもらった注射で突然大いびきをかいて眠りだしたらしい(家内が後で教えてくれた)。

「リタリンが合わないのですかね~」

と、医師が呟いたが、もはや「いざという時の御守り」を手放すことはできなくなっていた。


新婚の山崎先生夫婦がGWにお台場の「踊る大捜査線」の撮影現場を見に行った時、突然、先生が倒れたと聞き心配になった。

後ほど山崎先生に聞くと、

「どうも、お酒の飲み過ぎで肝臓が弱ってるようなんだ。しばらくの間は飲みに行けなくなっちゃったよ」

とのことだった。


伸子さんが、めでたく妊娠して退職することになった。

大切な長男の子なので、夫のご両親の希望もあり、子育てに専念するということだった。

ぼくは、これほど有能な女性がいなくなるのは辛かったけど、夫の両親に実家の近くに家を建ててもらって幸せに暮らしている彼女の事情はよくわかっていたので、心から感謝して見送った。


伸子さんが退職してから、事務は家内と三百合さんの2人になった。

三百合さんの事務処理能力と顧客応対能力は伸子さんに勝るとも劣らないものに成長しており、事務処理は全く心配のない状態になった。

後から知った話だけど、彼女の母校である岐阜女子大は優秀な卒業生をたくさん輩出することで有名だそうだ。


三百合さんと家内が事務をやってくれて、ぼくは毎日4時30分を目安にその日の仕事を全部終わらせて、娘の待つ幼稚園に車を走らせた。

幼い娘との付き合いが深まるにつれ子育てが一層楽しくなり(それ以前から楽しかったけど)、休みの日には自転車の前の子供用椅子に娘を乗せて公園や駄菓子屋に連れて行った(驚くことに、駄菓子屋が残っていたのだ)。

お風呂にも毎日入れて、髪の毛を洗ってやったり湯船であれこれ四方山話を楽しんだ。

夏は公営プールに、平常時は、週に数回は近くのイオン(当時はジャスコ)に行って「大乱闘スマッシュブラザーズ」という乱闘ゲームの他流試合を楽しませたりした。

余談ながら、格闘ゲームを解放していたイオンのおもちゃ売り場はとてもクールな場所だった。

普段は、知った相手としかプレーできない格闘ゲームを全く知らない相手と対戦できることから娘は燃えまくり、名前を知らないゲーム仲間がたくさんできた。

対戦中、ぼくは店内をあちこち見て回っては時間を潰した。


そんなある日、10時の相談者に面談する直前に中野先生から電話があった。

面談寸前だったので普段なら取り次ぐことはないのに、何故か三百合さんがぼくの机の上の電話機に転送してきた。

いぶかりながら受話器を取ると、

「・・・今、山崎先生が亡くなりました」

という中野先生の沈痛な声が聞こえてきた。

ぼくは、力が抜けて腰を抜かしてしまった。


(つづく)


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