この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。
人の命はいつ絶えるかわかりません。
私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。
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1991年に地元の三重県伊勢市で法律事務所を開業したぼくは、それから数年間は絶好調だった。
乗り物恐怖症を怖れることもなく、薬の服用もしなくなった。
河井くんという中学校のテニス部時代からの大親友を中心とした週2回のナイターテニスを楽しみ、1歳年上の山崎司法書士先生をはじめとする地元の司法書士の先生方とも公私ともに親しくお付き合いいただいた。
若輩にもかかわらずロータリークラブに入会させていただき、商工会議所の議員もやらせていただいた。
仕事も順調で、丁寧かつ一生懸命に判例や学説を調べて処理していったのと法廷技術を常に向上させる努力を重ねていたので、訴訟事件でも勝訴判決をたくさんもらった。
当時、敗訴判決をもらったという記憶はない。
(敗訴間違いなしという案件や依頼者の利益にならない事件を原則として受けなかったので、ある意味当然の結果だろうが・・・)
伸子さんという、若くてかわいくて聡明で仕事のできる事務員さんが入ってくれたおかげで仕事効率も上がり、残業ゼロ、長期休暇はどこよりもたくさん取るという採用の時の約束も実行できた。
何もかも順風満帆という日々が数年間続いた。
そんなある日、午後すぐの証人尋問の法廷で、得意の反対尋問をしている最中、突然、激しい動悸と吐き気が襲ってきて脂汗をかいた。
まさか!
ここは法廷で乗り物の中じゃない。
たまたま、仕事が多くなってストレスと緊張が続いていたからだ。
ぼくはそう信じた。
ところが、それ以降、法廷に出ると、証人尋問のような長い時間ではなくても、動悸や吐き気に襲われるようになった。
ここは法廷だ。
ぼくの仕事場だ。
法廷に出るのが怖くなったら弁護士としての仕事ができなくなってしまう。
神はどこまでぼくをいじめれば気がすむんだ!
1年365日欠かさず勉強をして司法試験に受かり、(涙を飲んで)都落ちして最後にたどり着いた田舎の街弁という仕事まで取り上げるつもりなのか!
ぼくは心底神を恨んだ。
やむなく地元の病院の神経科を受診することにした。
担当医はとても親切な方で、今まで飲んできた薬が統合失調書(かつての精神分裂症)の薬であることなどを説明してくれた。
そして、心理学の祖フロイトが用いた「自由連想法」という治療を施してくれた。
「自由連想法」というのは、一定時間横になって目をつむり、頭に浮かんできた事柄をどんどん口に出していき、医師がそれをメモるというものだ。
「自由連想法」の治療が終わると、気分がスッキリするのを感じた。
「自由連想法」の結果から医師が指摘したことは、ぼくが幼い頃父の友人の車に乗せてもらっている時に車酔いしておう吐してしまったこと、兄から思春期に受けた心身への暴力で毎日びくびくと怯えながら暮らしていたことの2つがぼくの恐怖症の原因だということだ。
もっとも、当時もまだパニック障害という病気は認知されておらず、その点の説明はなかった。
投薬治療と「自由連想法」治療を併用した後、投薬治療が中心になっていった。
弁護士業務を辞めるわけにはいかないので、朝晩の薬の服用と法廷に出る前の薬の服用で法廷活動をこなしていった。
仕事の質を落とすことはできないので、責任を持って仕事に取り組んだ。
ここで是非、読者の方々にご理解いただきたいことがある。
仮に、パニック障害のような心の病(しかも当時は病名さえ認知されてなくて一層不安だった)に罹患していても、きっりと責任を持って質の高い仕事ができるということだ。
現に、当時のぼくは、薬を服用しながらも分刻みの仕事をこなし、残業をすることもなく、一件あたりの弁護士費用が安いために常時200件くらいの仕事を抱え(平均的弁護士の10倍以上)、7000万円近い年収を得ることができた。
心の病は決して仕事の質を落とさないし生産性を落とすこともない。
企業経営者や管理職の方々には、このことを強く強く訴えたい!
(つづく)
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