この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。

人の命はいつ絶えるかわかりません。

私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。


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1991年4月、ぼくは司法研修所での修習を終了した。


乗り物恐怖症だったため、(泣く泣く?)地元の三重県伊勢市で弁護士として即独立することになった。


当初は、父が廃業するまで細々とやっていた眼科医院の建物を借りて法律事務所を開く予定だったが、思わぬところで兄の横やりが入ってきた。

司法研修所の卒業試験である「いわゆる二回試験」の直前に兄から電話が架かってきて、

「あの建物と実家は俺が使う。親父の承諾も受けている」

と、突然告げられたのだ。


家庭内のことになるけど、「心の病」を語る上で兄については触れておかざるを得ない。

兄はぼくより4歳年上で、中学生のころから家庭内で荒れはじめた。

成績不振等を両親のせいにして暴言を吐き、はけ口としての暴力の対象はすべてぼくに向けられた。

思春期の4歳の年齢差は体格差に顕著に現れ、剣道部だった兄は竹刀や木刀でぼくを殴ったり、「お前はダメなヤツだ」などとと言ってはぼくの心身を傷つけた。

大学に合格して東京に出るまで、ぼくは毎日びくびくと怯えるような毎日を送らざるを得なかった。もっとも浪人をしていた兄はぼくと受験年が重なることを嫌がり3浪の末、2000万円の寄付金を(渋りまくる父を母に強引に説得してもらって)県外の私立歯科大学に行っていたので、ぼくが高3の時は、夏休みなどで兄が帰省した時を除けば、被害を免れていた。

兄が本当に嬉しそうにぼくに対して笑ったのは、大学受験の手応えを聴かれて「おそらく落ちるよ」と(敢えて兄を刺激しないように)言った時と、ぼくが司法試験に最初に落ちた時の2回で、司法試験不合格の時はわざわざ電話を架けてきて大笑いをするというありさまだった。

もっとも、多少なりとも弁護しておくと、兄は未熟児として生まれ未成年のころから「てんかん」を患っており、ぼくに対する執拗な攻撃性はそのせいかもしれない。


後刻、ぼくが神経科の医師に「自由連想法」という治療を受けた後、

「荘司さんの場合は、お兄さんに対して毎日びくびく怯えながら過ごした経験が悪影響を及ぼしてます」

と告げられた。

ぼくのパニック障害の原因のひとつが「思春期に毎日びくびくと怯えながら過ごした経験」だとしたら、お子さんをお持ちの親御さんは絶対にそのような環境をつくらないようにして欲しいと心から願っている。


話を戻すと、司法研修所卒業間際になって予定を大幅に変更しなければならなくなった。

やむなく、研修所を卒業してから実家に戻り、不動産屋を訪ねて賃貸事務所と住み家を探すことになった。

賃貸事務所は、たまたま不動産屋の持ちビルに空き室があったのでそこに決め、住み家は名前はマンションとなっているも築数十年で墓地の隣に建っている古いビルの2Kの部屋を借りて家内と二人で住むことにした。


父に頭を下げて500万円を出してもらい、事務所とマンションの敷金等と事務所の備品を一揃えして、ようやく一国一城の主になることができた。

50万円くらいの中古のブルーバードを買って、移動手段も整えた。

中高時代の同級生が事務所開業を祝ってくれ、家内を事務員にして「荘司雅彦法律事務所」がようやく船出した。


自営業としてすっかり組織の拘束から解き放たれたときの開放感は、予想を上回るものだった。

土日も時々事務所に行っては、開放感に浸って笑みを浮かべていた(いささか不気味だけど、自由気儘にできることが当時のぼくにとっていかに素晴らしいことだったかわかってもらえるだろう)。


あちこちに挨拶回りに出かけて営業活動をし、事務所に戻ってからは実務書や判例集を読む毎日だった。

たまに仕事が入ると、嬉々として全力を尽くした。

法廷活動には修習生時代から自信があったので、まさに水を得た魚のように成果を上げていった。


このころから、当初、東大病院で処方されていた薬を飲まなくても済むようになった。というより、自然に「服用すること」を忘れてしまった。

もうすっかり良くなったと確信した。

組織の中にいると、先々の予定が組まれていて、その予定が遠方に行くものであったりすると(当日、結果的に仮病で休むと決めていても)不安になる。そして、実際仮病で休んでいると罪悪感を感じる。

このような組織内でのプレッシャーが、いかに不安感を煽り立てていたのかを、ぼくは初めて実感した。


昔の同級生たちと週に2回のナイターテニスを楽しみ(長銀高松支店時代以来のテニスだ)、ささやかながらも仕事が入ってくるようになって収入も増えてきて、まさに絶好調だった。

娘を授かったのもこの時期だ。


この時、数年後はるかに大きな苦しみを味わうことになろうとは、想像すらできなかった。


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(プロフィールは若干古くなってます)


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