この体験記は、心の病を持った多くの人たちにとって実現できていない現代日本社会のバリアフリーを目的としたものです。

人の命はいつ絶えるかわかりません。

私の命があるうちに自らの体験を公に問うことで、一人でも多くの同じ苦しみを持った人の役に立てればという目的しかありません。


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1986年10月1日


ぼくは、晴れて司法試験浪人になり司法試験受験に専念できることになった。


早稲田司法試験セミナーの択一ゼミで友人になった綿貫さんがしみじみと教えてくれた。

「司法試験はここ数年でものすごく難しくなったんだ。予備校がたんさんできてるでしょ。法務省も若い人材を欲しがるものだから択一試験の憲法なんてパズルみたいだよ。ぼくも数年前までは択一試験に受かっていたんだけど、ここ数年連続して落ちてしまって・・・。あ、ぼくだけじゃないよ。受験者数が増えているのでベテラン受験生がけっこう落ちちゃうんだ、択一で・・・」

「みなさん、何回くらい受験しているのですか?」

「合格者の平均受験回数は6回少々だと発表されている。でもね、それは幸運にして合格できた人たちのことなんだ。受験をしている人を平均すると10回以上はいってるんじゃないかなあ。ほら、ぼくは20回受験することになるけど、ぼくだけで10回の人2人分だもん(笑)」

「厳しいのですね~」

「荘司さん。覚悟したほうがいいよ」


綿貫さんは、毎朝5時に起床してランニングをしてから勉強を始め、食事以外は(予備校の講義も含めて)すべて勉強の毎日とのことだった。

まさに、修行僧のような生活だ。


ぼくは、身が引き締まる(というより「身震いする」)思いで、必死で勉強する決心をした。

できるだけ効率的な勉強法を学んだり考えたりして、毎日、修行僧のになったつもりで勉強した。

大晦日も元旦も予備校の講義があったので出席した。


翌年の択一は合格したものの、論文試験は不合格。

法務省の掲示板がとてもとても小さく見えて、しばらく付近を彷徨ってしまった。

これで、井坂社長に言った「来年受かります」という宣言はボツになった。


論文試験不合格後は、辰巳法律研究所で加藤晋介先生が中心になって教えている小教室に入り、早稲田司法試験セミナーと合わせて週に4回の模試を受けることにした。

一年目で杜撰ながらも全7科目を一回転させていたので、同じスケジュールにすると自分を甘やかせてしまうと思ったからだ。


苦労のかいがあり、翌年の司法試験に合格できた。

昭和最後の合格者の一人として。


余談ながら、司法試験受験界で知り合った人たちや先生たちは、みんな本当に素晴らしい人たちだった。

特に、受験生はひとつの目標に向かって懸命に努力しているからか、それとも社会醜い側面にさらされていなかったせいか、綿貫さんをはじめ、とても純粋で人間的にも魅力ある人が多かった。

2度目の論文試験の最初の民法で大論点を落として落ち込んでいたぼくを、「大丈夫だよ。そんなに大きな論点じゃないから」と慰めてくれた櫻井さんがいなければ、後の論文試験で自暴自棄になっていたかもしれない。

鳥飼先生の「30点答案を書く」という発想がなければ、刑事政策で直前まで見返していた部分が出たとき「30点答案を書くぞ!」という勇気が湧いてこなかったかもしれない(論文試験1通あたり25点が合格点で30点というのは他の失敗を補って余りある点数のことだ)。


ひとつの目標に向かって懸命に努力している受験生たちを、当時の法務省関係やマスコミは「せっかくの若さをムダにしている」と批判的にとらえていた。

しかし、目を輝かせながら日々ひたむきな努力続けている受験生たちと接してきたぼくからすれば、彼らの意見は余計なお節介だと思う。

ぼく自身も、日々実力が付いてくることを実感し、充実した楽しい毎日を送ることができた。

合格したからそんなことが言えるのだ、という反論もあるかもしれないけど、当時のぼくは勉強だけに専念できる毎日を本当に楽しんでいた。


かくして、無事、2回目で司法試験に合格はしたものの、ぼくはいささか憂鬱だった。

そのまま司法研修所に行けば、バス旅行など乗り物に乗らなければならない行事がたくさんある。

病名もないのに(つまり医師の診断書もないのに)、はたして逃げることができるのだろうか?

司法研修所に進まずに、請われるまま早稲田司法試験セミナーの講師として生活していくほうがいいのではないだろうか?


勉強を開始した1986年10月1日から換算すると、2年以上も電車やバスには一切乗っていない・・・。

移動はすべて原チャリだった。

こうなると、もはや怖くて怖くて乗り物にはとても乗れない。


とりあえずドタキャンしてもいいように、司法研修所への入所手続を進めていった。

最高裁や司法研修所(当時は文京区湯島にあった)への移動は、すべて原チャリでこなした。

司法研修所の身体検査では、多くの入所予定者が再検査だったのに対し、皮肉にもぼくは一発でパスしてしまった。

履歴書の病例等には「極端に乗り物酔いをする以外、特になし」と記入した。

実務修習希望地は、かつて社会人一年生の時から数年間過ごし、自転車での移動が可能だと知っている高松を第一希望にした。


次第に外堀が迫ってくる中、ぼくは一縷の望みをかけて東大病院の精神科を受診することにした。

この決断が、その後のぼくの人生を大変なことにしてまうなんて、想像すらしなかった。


(つづく)


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