最近、うつ病やパニック障害に罹患しながらも会社に申し出ることができず、一人で悩んでいるビジネスパーソンが多いと聞き及びます。

実は、私自身、30年近く前、当時日本の医療でも認知されていなかったパニック障害に罹患し、その後の人生で何度も死にたくなるような経験をして、現在に至っています。

心の病と闘っている多くの人々に代わって私自身の体験を書いていき、心の病の罹患者に対する社会でのバリアフリーを目指していきたいと思います。

今回はその初回となります。


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1984年5月


ぼくはすし詰めの東横線電車の中で、繰り返し襲ってくる吐き気と耳にまで聞こえてきそうな激しい心臓の動悸に耐えながら脂汗を流していた。

もうだめだ、これ以上我慢ができない!

電車が自由が丘駅を発車しようとする寸前、無理矢理回りの人たちを押しのけて電車の外に出た。

ホームのベンチにぐったりと座り込み、しばらくの間、自分の身にいったい何が起こったのかを考えていた。

前の晩、高松支店時代の日債銀(当時)の友人の土方くんのスペイン行きの送別会で飲み過ぎたせいだろう。
それでなくても、毎日ストレスで心身をすり減らしているのだから・・・。


その半月くらい前、ぼくは新卒で入社し約4年半勤めた長銀から野村投信への転職を決意し、退職の意思を直属の上司の次長に伝えていた。

したところ、しばらくしてから大手町にある本店の人事部に呼び出しがきた。

現在、週に2、3度の割合で本店に呼び出され、1時間くらいなだめすかし脅しすかしをされては転職の翻意を促されている真っ最中だ。


転職の話は、渋谷支店の同僚は誰も知らない。
知っているのは、(当時の)直属の支店長代理、次長、副支店長、支店長の4人だけだろう。
同僚に話すことは直属の次長から厳しく口止めされていたので、ぼくは隣の席に座っている同期で親友の川村にさえ相談できなかった。


朝早くから夜の10時ころまで残業をしていたので、同じ部署の他の同僚や女子行員に黙っているのは、なんだか裏切っているような気がして心が重かった。
それに加えて、人事部の執拗な慰留工作が続いていたので相当なストレスがかかっていたに違いない。


俺一人くらい退職したって銀行は痛くも痒くもはずだろう。必死で慰留工作をしているのは、長銀から野村投信へ転職したという好ましくない前例を残したくないだけだというくらいわかってるぜ。いい加減に解放してくれよ。

ぼくは心の中で悪態をつきながら、公衆電話に向かった。

直属の支店長代理の黒川さんに、電車の中で突然気分が悪くなったこと、落ち着き次第電車に乗るので少し遅刻することを伝えた。
「体調が悪いんだったら、ムリしなくてもいいんだよ」
黒川さんはそう言ってくれたが、ぼくには今日中に回らなければならない取引先がいくつかあったし、退職を決意している身だからサボっているんだと思われたくなかった。


3つ4つ電車をやり過ごしてから、落ち着きを取り戻した。

そして、やっていきた相変わらず超満員電車に乗り込んだ。


どうしたことだ!
電車に乗り込んだとたん、心臓の鼓動が早くなり脂汗がにじんできた。おさまったはずの吐き気もぶりかえしてきそうだ。

大丈夫・・・勤務先である渋谷までもう少しだ。
ぼくは自分に言いきかせながら、呼吸が速くなってくるのを必死で我慢した。


正体のわからない敵との初めての出会いだった。
その時、まさかこいつがぼくの運命を大きく変えてしまうなんて思ってもみなかった。


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