今回は、「アイドル国富論」(境真良著 東洋経済新報社)をご紹介します。


本書は、アイドルと日本経済の間には密接な関係があると説きます。

景気循環や日本経済の様相の変化に伴って、アイドルの姿が変わっているということを歴史的な変遷を振り返りながら解説しています。


まず、本書はアイドルを次のように定義します。

① 18歳までにデビューし、②歌手であり、③歌唱以外の様々な領域(テレビドラマ、バラエティ番組等)を跨いで活躍し、④ 総じて目の覚めるような美貌や素晴らしい声と歌唱力、見るものを唸らせる演技力といった実力に恵まれていない、というものです。


映画スターの時代の次に、テレビが普及し、南佐織に始まり、山口百恵、松田聖子、中森明菜、小泉今日子などのアイドルが1970年代から80年代にかけて登場しました。

これらのアイドルは80年代後半に次第に姿を消していきました。


アイドルが次々と世に出た時代は日本経済が発展しており、「誰もがみな幸せになれる」というイデオロギーが支配していました。

しかしながら、自己実現の機会を持てない人間がほとんどだという意識がありました。

このように将来に「大きな夢」を抱けない多くの人たちが主体性を実現できる可能性は、「消費者」としての次元です。

自己実現を志向する少数の人間をマッチョとすれば、その他多くの人間はヘタレと著者は表現しています。

このようなヘタレたちにとって、完全すぎる美貌は眩しすぎます。

少し欠点が合って自分が支えなくちゃと思わせる「美人」ではない「かわいい」アイドルが、ヘタレたちにとっては居心地がよかったのです。

ですから、最初の定義④にあるように、実力がなく、美人ではない「かわいい」アイドルが彼らの支持を集めた訳です。

バブルが崩壊し、グローバル資本主義が登場すると同時に「アイドル冬の時代」がやってきます。

それは、アイドルを支えるヘタレの時代が終わったからだと考えれています。


「アイドル冬の時代」には、後藤久美子に代表される「美少女ブーム」と「邦楽ポップス」のようなホンモノ志向に変わってきました。

若者たちは、疑似恋愛の対象としての「アイドル」から、憧れる対象としての「ホンモノ」へ消費の主流を変えていったのです。

この時期に、ジャニーズアーティストたちが台頭してきたのも特徴的です。

モーニング娘は、徹底したダンストレーニングを積んでホンモノ志向を強めたことから、この時代の若者たちに支持されました。


2010年には、AKB48の登場により「アイドル戦国時代」が起こります。

AKB内部での競争は激烈なものとして視聴者の目にさらされます。

そのプロセスの中で見せる、勝ち負け、泣き笑い、といったドラマツルギーこそがAKBの真の商品性なのです。

若者たちは、自分たちが押すメンバーを応援して競争に参加します。

この「競争のドラマ」は、現実の市場経済、企業社会の姿を映し出しています。


小泉改革を経て、グローバル市場経済に向かう日本社会では、市場経済の導入に積極的なマッチョと、格差の拡大や社会の歪みの影響を受けたヘタレが共存するようになります。

社会がグローバル化して競争社会になったことから、ヘタレたちも市場主義を無視することはできなくなります。

著者は、グローバルエリートの道を目指すマッチョとは別に、そのような方向性をもたないものの市場主義の中で生きているヘタレを「ヘタレマッチョ」と表現しています。

このように、市場競争原理に生きつつもヘタレている若者たちは、「闘うアイドル、励ますアイドル、究めるアイドル」のファンとなっていきます。

現代アイドルのファンは、異性や若年層のみならず、性別や年齢を超えて広がっています。

「闘うアイドル」であるAKB、「励ますアイドル」であるももいろクローバーZ、「究めるアイドル」である当代モーニング娘たちが、それぞれの代表格です。


ところで、世界に目を向けると、アイドルのいない国の方が多数派かもしれません。

欧米では、技能的実力派しか主流になれず、いわゆるアイドルは存在しません。

美貌と実力を兼ね備えた少女時代やKARAのような「韓流ガールズグループ」は、日本のアイドルとは一線を画するものです。

その背景には、韓国は厳しい競争に勝ち抜くために、よい学歴はもとより整形によってよい容姿を得ることすら当たり前となっています。

このような厳しい競争社会では人々はマッチョ化し、「欠点のある顔」よりも「完全な容貌」を目指します。

このような社会メカニズムの中では、日本的な意味での「アイドル」は生まれ得ません。



以上のように、本書は、日本が一億総中流の時代には「自己実現という夢をもてないヘタレ」が初期のアイドルを支え、現代のようにグローバル市場主義を無視できない時代には「性別や年齢を超えたヘタレマッチョ」が「闘うアイドル、励ますアイドル、究めるアイドル」を支えていると分析されています。

そして、世界的に見ると、アイドルのいない国の方が多く、欧米では実力派が、韓流では「不完全」ではない「完全なもの」を求めるがため、不完全は日本的アイドルは存在しないと説きます。


しかしながら、いささか疑問に感じるのは、アメリカであろうと韓国であろうと、はたまた他の国であろうと、マッチョよりもヘタレの方が圧倒的多数を占めているはずです。

ヘタレの存在がアイドルを産む土壌だとすれば、世界中にアイドルが生まれてもおかしくないはずです。

そのあたりがいささか曖昧であり、アイドルというものが日本特有(もしくは国際的に少数派)だというのであれば、アイドルを産んだ土壌や精神基盤についての考察が必要なのではないでしょうか?


また、アイドルの将来像についての予測がないのも私にとっては不満でした。

少子高齢化が急速に進行しつつある今日の日本において、アイドルはどのような存在となっていくのだろう、という極めて興味深い論点が欠落しているように思えます。

私の個人的な見解としては、若者が少なくなる時代に大々的にお金をかけるアイドルを生み出すことは容易ではありません。

ひとつの可能性としては、初音ミクのような人工アイドルの発展型が出現し、各人がアレンジを加えて3Dプリンタ―でマスコットを作れるようにする、アイドルのオンリーワン化が考えられます。

もうひとつの可能性としては、AVや風俗からステップアップしたアイドルが増えるということです。

前回の「エロティック・キャピタル」で書いたように、女性の大きな個人資産であるエロティック・キャピタルが表の世界で評価される時代が到来しつつあります。


いずれにしても、本書は、1970年代から今日までの日本社会の人々の意識の変遷を、アイドルのあり方の変化(逆でしょうか?)にリンクさせて解説しようとした斬新な試みであり、日本人の意識の変遷を知るという意味において極めて興味深い考察です。

業界関係者だけでなく、日本社会におけるアイドルというものに興味のある多くの人たちにお勧めの一冊です。


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