最近、世間の注目を集める猟奇的犯罪が目につき、マスコミにも大々的に報道されていることから、死刑の廃止を求める声が少なくなってきているように感じます。


もっとも、世界に目を向けてみると、死刑を法律上・事実上廃止した国が3分の2以上にのぼっており、国連総会でも「死刑廃止条約」が発効されました(わが国は批准してません)。


近隣諸国を見回してみると、死刑を存続している国は、中国と北朝鮮くらいで、韓国では事実上廃止されています。


死刑存続論の根拠は以下のようなものです。


1 人の命を奪った者はその生命を奪われなければならない。

2 犯罪抑止力がある。

3 凶悪犯罪者を永久に社会から隔離することによって社会防衛ができる。

4 被害者の遺族感情や国民感情が死刑の存続を求めている。


死刑廃止論者の根拠は以下のようなものです。


1 国家による生命剥奪は生命尊重の理念に反する。

2 犯罪抑止力がない。

3 死刑は残虐な刑罰である。

4 誤判の場合、執行されたら取り返しが付かない。


両者の主要な根拠は以上のとおりですが、真っ正面から対立している「犯罪抑止力」という点については、死刑廃止後に重大犯罪が増加したという例は廃止国ではほとんど認められず、廃止論の方に分があります。


両者の最大の根拠となるのは、それぞれ最後の4の理由です。


現在、わが国が死刑を廃止していないのも、遺族感情、国民感情を反映しているというのが最大の理由です。


もっとも、誤判に対する再審請求が認められて「逆転無罪」になったような場合、「長期間拘束されてきて失った人生は取り返せないではないか!」と、逆転無罪となった被告人に対して同情的になる傾向が強くなるのも、国民感情のひとつの側面でしょう。


私は、従来は、死刑は絶対に存続させなければ被害者遺族の人権を侵害するようなものだ、とまで考えておりました。


しかし、実務経験を積み、裁判官の実態を知れば知るほど、日本の刑事司法は「有罪推定の原則」で運営されているのを知りました。

刑事法の大家であった故平野龍一先生の言葉を借りれば、「日本の刑事司法は絶望的」だと思えるようになってきました。


例えば、かの毒物カレー事件の林被告人の裁判では、それまで財産目的だった被告人が無意味な無差別殺人を行う動機に乏しいこと、証拠とされた毒物が(見つけて下さいと言わんばかりに)簡単に見つかりすぎたこと等から、(あくまで報道で知った範囲に過ぎませんが)無実とすべきであったと考えています。


また、被告人の無罪判決が出ると、遺族が悔しがるシーンを大々的に報道するマスコミの姿勢は理解できません。

(有罪推定の傾向が強い)今日の裁判所が無罪としたわけですから、犯人でない可能性の方が圧倒的に高いのです。

犯人でない人物が無罪になるのは当然のことであって、深い悲しみを背負った遺族はともかく、マスコミまで無罪判決を非難するような報道をするのはいかがなものでしょうか?


現在の私は、このような刑事司法制度のもとでは、死刑存続はあまりにも危険であると考えるに至りました。


その代わりとして、絶対的無期刑(仮釈放を認めず、死ぬまで刑に服する)の創設が望ましいのではないでしょうか?


これに対しては、極悪人を生かしておくために税金を使うべきではないという反論もあるでしょう。

しかし、死刑確定者の数は受刑者総数に比べればごくごく僅かで、絶対的無期刑者を刑務所に収容したとしても、追加的な税金投入は微々たるものです。


余談ではありますが、受刑者が刑務作業で作った品物はキャピックというブランド(?)で販売されいます。

司法試験受験生時代に、刑事政策の著名な教授が、

「キャピックの靴はとてもよくできていて、市販の物よりよほど優れている」

と話していました。

調べてみると、今ではネット販売もされています。

私も試しに先ほど素麺を頼みました。


話を戻しますと、一生涯社会に出られないという方が、場合によっては死刑よりも厳しい刑罰であるともいえます。

私が国選弁護などで接見した(実刑確実の)被告人は、必ずと言っていいほど、

「何年くらいになりますかねえ~。1ヶ月でも2ヶ月でも短くして下さいよ」

と必死で頼んできました。

そのくらい刑務所生活は厳しいのです。


生涯、厳しい刑務所生活を送らねばならない、二度と社会に出られない、こういう制度があれば死刑は廃止してもいいと思うのですが、いかがでしょう?