前回は「文化バイアス」についてご説明しました。


文化バイアスは、一見誰にでも理解できそうですが、同じ日本人が相手の場合はつい見逃してしまいがちであることと、想像以上に大きな影響力を持っていることに着目していただきたいという内容でしたね。


今回は、バイアスの最後である「規範バイアス」についてご説明します。

「規範バイアス」という言葉を耳にしても、「文化バイアス」のようにピンとくる人は少ないでしょう。

まあ、専門用語としてご理解いただければけっこうです。


さて、この規範バイアスは、マズローの欲求階層の下から2番目である人間の「安全欲求」から導き出せるものです。

文化バイアスがそれよりひとつ上の「帰属欲求」から導かれたのと比較すれば、より根源的で人間にとって普遍的な欲求に基づくものであるといえるでしょう。


安全欲求から導かれる規範バイアスは、大きく分けて次の2つがあると考えられます。


1 安全を確保するには、自分と類似した他者の行動を規範としてその模倣をするというもの。


2 現状維持しようとする傾向が人間にはあるということ。


1の他者の模倣というのは、とりあえず自分と同じような人たちの真似をしていれば安全が確保されるという意味で、安全欲求から導き出せます。

他者と異なることをやると目立ちますので、安全が脅かされる恐れがあるという考えに基づいています(外敵が目立つ獲物を先に襲うだろうことは容易に想像がつきますよね)。


そこから導き出されるのが、既にご紹介した「社会的証明」です。

「影響力の武器」の著者や「予想どおり不合理」の著者が書いているように、人間には、他人、特に自分の知人や友人の真似をする傾向があるというものです。


これは、個人主義的といわれているアメリカでも顕著に見られます。


ある実験で、病院の待合室で他の人たち(サクラです)が当然のように下着姿で待っていました。

すると、後でやってきた何も知らない患者2人は、何の指示も受けていないのに服を脱ぎだして下着姿になったそうです。


私がまんまと保険に加入させられた例も既にご紹介しました。

「先生の同期のT先生もH先生も加入されてますよ」

という言葉にひっかかり、とんでもない保険に加入してしまった例は既にご紹介しましたよね。


このように、日本人よりも個人主義的であるといわれているアメリカ人でも、他人(特に知人や友人)の模倣をしてしまうのです。

いわんや、集団主義的傾向の強い日本人をや、と言うべきでしょう。


2の現状維持重視の傾向は、それまでの間と同じようにしていればそれまでどおり安全に生きていけるだろうという安全欲求から導き出されます。

変化は危険をともなうのではないかという恐れでもあります。


好例が、日本人の大好きな「前例主義」です。

以前と同じようにやっておけば安全だろうという気持ちが働いて、(その前例の当否を考えることなく)前例に従ってしまう傾向がありますよね。

これは、特に、失敗が出世に響く役所や大企業では顕著に見られる現象です。

とはいっても、前例主義は役所や大企業特有のものではありません。

個人であっても、起業家であっても、程度の差こそあれ前例主義の呪縛から逃れるのは至難のわざなのです。

人間が安全欲求というものを持っている以上。



以上を前提として、説得における対策を考えていきたいと思います。


まず、他人の真似をしてしまうという点では、以前も書きましたように、

「同業他社でも採用されていますよ」

「お知り合いの鈴木さんにも買っていただいてますよ」

というのが殺し文句になるということでしたよね。


これは以前にもご説明しましたので、この程度にとどめておきます。


問題は、現状維持バイアスにどのように対処すべきかです。


はっきり申しまして、これはかなり困難なことです。


大きな石を想像してみて下さい。

一度転がり出せばそのまま転がすのは比較的容易ですが、とまっている石を最初に動かすには相当の力を加えないといけないのと同じです。

さて、どうやって止まっている石を動かせばいいのでしょう。


その前に、現状維持バイアスにとらわれて失敗してしまった例を見てみましょう。


キリンビールはかつて圧倒的なシェアを持っていました。

私より上の世代の人たちは、どこに行ってもキリンラガーばかり飲んでいたそうです。

私たちの世代で、「サントリーオールド」というウイスキーがどこに行っても置いてあったのよりはるかに大きなシェアだったそうです。

外でキリンラガーを飲み、家に帰ってきてもキリンラガーを飲むというのが多くの人たちにとって当たり前になっていたくらいです。

キリンビールは既に持っていた大きなシェアを維持したいがために、生ビールへの進出が遅れて他社の後塵を拝してしまったのです。


ソニーも、iPodが発売される以前に同じような機種を製造・販売する技術をもっていたそうです。

ところが、「そうなったらCDが売れなくなる」という反対にあって製品化は実現せず、アップルにコテンパンにやられてしまいました。

これも、「CDの売り上げを維持したい」という現状維持バイアスが失敗に結びついた好例です。


このように、企業が現状維持バイアスによって大失敗をしてしまった例は、数えれば切りがありません(アメリカのイーストマンコダックも同じ過ちをしました)。


このような現状維持バイアスに対する一般的な説得方法としては、変化しても存在を脅かすようなことにはならないということをデータで示すことでしょう。


キリンビールが生を出しても、それは決してキリンラガーを否定するものではなく、生ビールは全く別物なのだからキリンラガーの味を否定する訳ではないし、キリン全体としては更なるシェア拡大のきっかけとなるということを、消費者の生ビールに対する意識調査のデータを示して説得する方法です。


余談ではありますが、私たちの世代が就活をしていた時「三菱系の会社に入れば三菱系の施設でキリンの生ビールが飲めるそうだぞ」という話を聴いて、真面目に三菱系の会社への就活を考えた同級生が少なくありませんでした(私もそのひとりでしたが)。

こんな状況でしたから、意識調査は容易にできたはずです。


現状維持バイアスに対抗する説得としてよく使われるのが、安全欲求より根源的な生存欲求に訴える手法です。

「今のIT全盛の時代にこのような手作業をしていたのでは、御社は最悪倒産してしまいますよ」

というのが好例です。

一種の脅し的な説得で、個人的にはあまりお勧めしたくありません。


ちなみに私は、男性が離婚すべきか否か迷っていると相談されたとき、離婚した場合のメリットを考え得る限り並べ、デメリットも考え得る限り並べ、

「私の経験と知識では、離婚に伴う一般的なメリットとデメリットは先ほど述べたとおりです。それに山本さんの事情を加味すると、メリット1は消えますし、デメリット2も消えます。しかし新たなデメリットが加わります・・・」

というふうに、メリットとデメリットを整理した上で、

「最終的には、あなたの判断です。離婚というのは現状を大きく変えてしまう人生の一大事ですから、弁護士の立場としてはどちらがいいとは言えません。メリットとデメリットを比較してご自身の人生観に照らしてご決断下さい」

と答えてきました。


なぜ男性か、ですって?


女性の場合は、弁護士に相談に来る段階で離婚の決断をしている方がほとんどだからです。


このように、現状維持バイアスを覆すような時には、客観的な観点から、考えられる限りのメリットとデメリットを挙げて、最後の判断を本人に委ねるというのも、かなり効果のある説得方法です。


なぜなら、あなたが客観的なメリットとデメリットを挙げなければ、相手は現状維持バイアスに縛られたまま決して動こうとしないでしょうから、動くモチベーションとなる材料を提供するだけでも十分な説得といえるからです。


私が、会社の経営者に対して何らかの説得をする時も、同じ方法をとりました。

「どっちがいいのですか?」

と問われれば、

「それを決めるのが経営者としての社長の役割ですよ」

と答えるだけです。



以上のように、規範バイアスには、他者と同じ行動をとろうというバイアスと現状維持バイアスの2つがあり、それはいずれも生存欲求から導き出されます。

説得が困難なのは現状維持バイアスをクリアして変化させる方です。

そのための決定的な方法はありませんが、私の提案した方法を参考にしていただいて、状況に応じてご検討いただければ幸いです。