ある日突然、かつての相手方本人が相談にやってきました。


なぜか、私は相手方本人から相談や依頼を受けることが多かったのです。

もちろん、決して「手加減」はしませんから、相手方本人にとっては、当時の訴訟は極めて”腹立たしい”ものであったのでしょう。


思うに、自分が訴訟を起こす立場にたってみると、かつて自分がコテンパンにやっつけられた弁護士のほうが頼もしかったのかも知れません。


さて、彼の依頼は次のようなものでした。


とある土地の開発に当たって、宅建主任者の資格を持っている彼に開発会社の社長から依頼が来ました。


端的に言ってしまえば、開発に必要な土地の買収を依頼されたわけです。


私との訴訟で学習能力を身に付けた彼(山南さんとしておきます)は、開発会社の社長と入念に契約書を結びました。

契約書の内容は、つまるところ、何件の土地の買収に成功すれば、その価格の数%の手数料を支払うというものです。


山南さんは、基本的に一生懸命働くタイプではなく、いわゆる「結果重視」の人物でした。

誠実さがあふれ出て(実際に誠実な人物でした)、他に委託された人々の~そうですねえ、10分の1まではいかないものの、少なくとも半分以下の労力で、委託された土地の買い付けに成功しました。


ところが、開発会社の社長は、

「山南のように、ほとんど仕事をせず、サボってばかりいた人間に、契約どおりの報酬を支払う必要なない」

と主張し、挙げ句の果ての訴訟にまでなってしまったのです。


山南さんの依頼を受けた私は、プロセスはどうあれ、契約どおりの結果を残したのだから契約どおりの報酬を支払うのが当たり前だと主張し、依頼会社の社長を反対尋問でコテンコテンにやり込めました。


判決は、当然ながら、勝訴。


ところが、相手である開発会社の社長が控訴し、山南さんが、いかにいいかげんな人物であったか、山南さんがまったく働いていなかった、等々の陳述書を何通も書証として出してきたのです(出したのは相手方の弁護士ですが)。


控訴審では、左陪席(実質的に判決を起案する一番の弱小の裁判官です)が和解の手続を進めたのですが、どうも、この左陪席の考えがおかしい。


何故かと言いますと、この左陪席の考えは、報酬は労力量に比例するものだという考えで、結果に比例するものではないということを、心証として明らかにしたのです。

私は、不動産業者(宅地建物取り扱い主任者たち)の仕事は、弁護士のように着手金がない代わり、結果を出せば、たとえほとんど労力を使わなくとも、相応の報酬が得られるものだと説得しましたが、どうにも、彼女(左陪席)には、納得がいかないようでした。


私は、よほど、和解と判決でも、裁判官用語での「黒字」は同じだろうから、あなたたちは和解を勧めるのだろう、と労働量重視主義者の裁判官に言いたくなりました。

しかし、それを言っては、依頼人に不利益な判決を書かれる恐れがあります。


”泣く子と高裁裁判官の心証には勝てない”というのが、弁護士としての限界であります。

私は、相手方にも”不利”をちらつかせて和解に持ち込んでいるのではないかと、慎重に探りを入れ、相手方同席の機会も設けて話し合いました。

(時として、アホ弁は、裁判官に「あんたのほうが不利だ」と言われると、途端に自分の依頼者を説得する傾向があります。また、それを狙って黒字を稼いでいるアホ裁判官が多いのが実情です)


あれこれ、裁判官の心証や相手方の姿勢を見た限り、この裁判官は”労働量至上主義”に陥っていると判断した私は、地裁レベルでの判断より若干安い金額で和解しました。

民事事実認定においては、高裁が最終審であるというのが、常識です。

例え、いかないびつな事実認定をされようとも、最高裁では門前払いを食らってしまうのです。


あ~あ。

結局、裁判所も、意味のないサービス残業をしている裁判官や書記官を評価するシステムに、ドップリつかっているのだなあ、と思いつつ、和解に応じた次第です。


裁判所にしてこうですから、現実社会において、仕事の効率性を高めて残業をしないというポリシーの持ち主がいかに冷遇されているか、心を痛める事件でありました。


ちなみに、私の事務所は、採用の時、

「残業は原則としてゼロ。ゴールデンウィークや夏休み、年末年始休暇はどこよりもたくさんの休暇を保障します。その代わり、通常日は5時までは働いて下さいね」

と言って、それを承諾してくれた人を採用していました。

その結果として、裁判所書記官というエキスパート公務員以上の女子職員が育ちました(というより育ってくれました)。


まだまだ、日本社会に根強く残る、就業時間の長さイコール仕事への熱心さ、という発想が、多くの就労者を苦しめてくるだろうということを実感する事件でした。