これは、私が弁護士に成り立ての頃のことでした。
初老の女性が事務所を訪れ、次のような相談を受けました。
「私は古いアパートを持っているのですが、今は女性一人しか入っていません」
「何部屋くらいのアパートですか?」
「5部屋の小さな木造アパートです」
「それで、本日いらっしゃったのは、アパートがどうかされたのですか?」
「実は、一人だけ借りている女性の息子、20歳くらいかと思うのですが、母親の部屋の隣の空き部屋に出入りしているのです」
「それは間違いないのですか?」
「ええ、合い鍵を使ってその部屋を覗いたら、若い男の人の服やらバイクのヘルメットやらが置いてあって・・・そうそう薄い布団も敷いてありました」
「女性の息子さんに間違いはありませんか?」
「間違いありません。私・・・彼が、その部屋に出入りするところを見たのです」
「そりゃあ、間違いなく住居侵入ですよ」
「でも、警察に行っても相手にしてくれません。何とかお願いできないでしょうか?」
ということで、私は初老の女性(村田さんとします)の依頼を受けることになりました。
まずは、犯罪行為が行われているのだから、警察に告発しようとい思い、告発状を詳細に書いて所轄の警察署に行くことにしました。
警察署の刑事課に入って、
「弁護士の荘司と申しますが、告発状を出しに来ました」
と、入り口近くにいた人に言うと、少し奥の方に座っていた45歳くらいの男性が近寄ってきて、部屋の中の応接ソファに案内してくれました。
「私、係長の柴田(仮名です)といいます。荘司先生、ですか・・・」
柴田係長は、私の名刺を見ながら穏やかな顔で自己紹介しました。
「はい。今日は告発状を持って参りました」
と言って、私がしたためた告発状を柴田係長に渡しました。
柴田係長は、告発状に丁寧に目を通してから
「先生、これはお預かりできませんねえ」
と、受理を拒否したのです。
「そんなバカなことはないでしょう。記載事実が不明確、不特定、記載内容から犯罪が成立しないことが明白なもの等でない限り、告訴・告発を受理する義務があるというのが、通説・判例じゃないですか?警察には、受理する義務があるはずですよ!」
と、私は食い下がりました。
柴田係長は苦笑いをしながら、話を続けました。
「まあまあ先生、落ち着いて下さいよ。ところで、この事実関係を拝見すると、住居侵入ではなく不動産侵奪になると思うのですが・・・」
「確かに、居着いているわけですからねえ・・・わかりました。書き直してきます」
柴田係長はまだ何か言いたそうにしていたのですが、私は大急ぎで警察署から事務所に戻って告発状を書き直しました。
その日は別の相談が入っていましたので、翌日、柴田係長のところに行って、
「ご指摘のように、不動産侵奪罪で告発状を書いてきました。今度こそ受理していただけるのでしょうね?」
と迫ると、柴田係長は困ったような顔をして、
「いやあ、やはりお預かりできません」
と言うではありませんか。
「私の聴くところでは、この息子は相当なワルらしいです。そんな男がアパートの部屋を勝手に使っているのに、警察は告発を受理せず放置しておくのですか!」
人の良さそうな柴田係長の顔が、いかにも『困ったなあ~』という表情をしています。
「それでは、柴田さん、私と一緒に現地に来てくれませんか。幸い、ここから車ですぐですから。私の車に乗っていって下さい」
と、私が別の角度から詰め寄ると、
「わかりました。では行きましょう」
と言って、若い警察官に声をかけて、その警察官と一緒に、私の後を付いて警察署の駐車場まで出てきました。
2人の警察官を車に乗せて、私は現地のアパートに向かいました。
どうにも警察官が同乗しているとなると、運転が落ち着かないものです。
私は、慎重に慎重に運転しながら、ようやく現地に着くことができました。
アパートの敷地は広く、その敷地の中に木造1階建てのアパートがポツンと建っています。
柴田係長ともう1人の警察官は、アパートの周囲を見回し、ナンバープレートが外から見えないように折り曲げられているバイクに目を付けました。
「これは、その息子のバイクですか?」
「はい、依頼者の大屋からそのように聴いています」
「こりゃ~、お話どおりワルのようですね」
と言いながら、柴田係長は母親の部屋のベルを鳴らしました。
出てきた母親は50歳くらいで、生活に疲れているような印象を受けました。
「警察の者ですけど、あなたの息子さんは隣の部屋に住み着いているのですか?」
警察という言葉に少しだけ動揺した母親は、
「さあ・・・私もよく知りません。あの子はいつも友達と遊んでるから・・・」
と、言葉を濁しました。
「お手数ですが、隣の部屋の中と外にあるバイクを確認してもらえますか?」
母親は、柴田係長の言葉に素直に従って、部屋の中とバイクを確認しました。
「あれらは、全部、息子さんの物ですか?」
「そうだと思います」
「息子さんが帰ってきたら、警察が来たと伝えておいて下さい」
「それじゃあ、先生、帰りましょう」
と私の方を振り向いて言うなり、さっさと車の方に歩いて行きました。
息子本人もいないし、これ以上現地にいる意味がなかったので、私は車に2人の警察官を乗せて、来た道を帰ることにしました。
帰りの車の中で、
「先生、あの息子、きっとすぐに出ていきますよ」
と、柴田係長がはっきりと言いました。
数日後、私はもう一度現地に行って母親に事情を訊くと、
「息子は、私が警察が来たと言ったら、どこかへ逃げていきました」
とのことでした。
柴田係長の予想どおりになったのです。
依頼者の村田さんに立ち会ってもらって、隣の部屋を覗くと、中はきれいに空っぽになっており、バイクもなくなっていました。
頑丈な鍵にすぐに取り替えるよう村田さんに指示をして、万一息子が帰って来た時のことを考えて、私はもう一度、母親と話をしました。
「息子さんのやったことではありますが、母親としての自覚はお持ちですか?」
「ええ。本当に申し訳ないことだったと思います。私もちょうど引っ越そうと思っていたのです」
「引っ越し先は確保しているのですか?」
「知人が持っているアパートだったら、いつでも入れてくれますので」
「そうですか・・・別にあなたまで出ていく必要はないのですよ」
「ありがとうございます。でも、また息子がまた悪さしたら、村田さんにご迷惑ですから・・・」
後日、母親が気の毒だと思っていた私は、村田さんに、
「母親の引っ越し費用くらいは出してあげるおつもりはありませんか?法律的には、彼女が出ていかなければならない責任はないと思いますので・・・」
と言って説得すると、
「ええ、ええ。出ていってもらえるのなら喜んで出します。あのアパートは住人がいなくなったら取り壊して新しい建物を作ろうと考えていましたから・・・」
と、私の提案に満面の笑顔で同意してくれました。
それはそうでしょう。
母親まで自発的に出て行ってくれたら、村田さんの土地利用目的の立て替え計画は、すぐにでも実行できるのですから。
とにもかくにも、これにて一件落着。
今になって思い返すと、われながら警察でよくねばったものだと感心する一方、弁護士としての経験不足を痛感して複雑な気持ちです。
その後、弁護士活動をしていくうちに、警察が、ちょっとやそっとでは告訴状や告発状を受理しないということを嫌というほど思い知らされました。
告訴、告発を受理するには、上司の決済がいるというのが理由らしいのですが(真偽は不明です)、この不受理の原則(?)に多くの弁護士が歯ぎしりしています。
私を含め、多数の弁護士がかかわったある民事事件で、多額のお金が暴力団に吸い上げられたということが判明しました。
たまたま、その事件にかかわった弁護士たちの多くが、弁護士会の民暴委員会のメンバーだったので、みんなで代わる代わる所轄署に告発状を受理するよう圧力(?)をかけに行きました。
一番熱心に足を運んだのは、依頼者が多額の被害を受けた私だったのですが、担当課長に、
「万一でも、負け戦はしたくない!」
と言われ、
『十分な根拠があるから何人もの弁護士が来てるのに!もう警察なんて頼まんわい!』
と、心底腹を立てて帰ったことがあります。
軽微な事件や刑事事件にもならないものに忙殺されている警察の実情はとてもよく理解できますが、不受理の原則(?)は、何とか改善してもらいたいものです。