知り合いの司法書士さんに連れられて、3人の相談者がやってきました。
80歳前後とおぼしき男性1人と、50歳前後の男女各1名の3人です。
3人の関係は、50歳前後の女性(美智子さんとします)の実の父親が80歳前後の男性(耕作さんとします)、もう1人の男性は美智子さんの夫の健二さんということでした。
健二さんと美智子さん夫婦は耕作さんの家に住んでいて、健二さんはいわゆる「マスオさん」でした。
話を聴くと、健二さんが知人から紹介された人物に「耕作さん名義」の手形を数枚作成して担保として渡し、数十万円の事業資金を借り入れたとのことでした。
「どうして、耕作さん名義の手形を発行したのですか?」
と私が尋ねると、健二さんが、
「お金を融資してくれた人が、お義父さん名義でないとお金を貸してくれないと言ったのです」
と、バツが悪そうに答えました。
「手形の金額はいくらでした?」
「はっきり憶えていませんが、1枚100万か200万だったと思います」
「100万か200万の手形を何枚くらい渡したのですか?」
「・・・7、8枚だったかな~。はっきり憶えていません」
「それでは、合計1000万円以上になるかもしれません。借りた金額は数十万でしょう。おかしいと思わなかったのですか?」
「あくまで担保ということでしたので・・・でも、今から考えるととんでもないことをしてしまったと思っています」
そう言って、健二さんは頭を抱え込んでしまいました。
「耕作さん、家、土地はあなた名義ですか?」
「ええ、田畑も私名義です」
「健二さんが手形を作って渡したことをご存じですか?」
「いいえ・・・今日その話を聴いて、不安になったので司法書士さんに相談に行ったのです。そうしたら、司法書士さんが『それは大変なことだ』と言って先生をの事務所に連れてきてくれたのです」
「耕作さんは、今はお仕事をやっておられますか?」
「時々農業の手伝いをしてますが・・・まあ年金生活者です」
「ということは、銀行の当座預金はお持ちでないのですね」
「当座預金って・・・なんですか?定期預金と普通預金ならありますが」
「わかりました。おそらく近日中に相手方から書面が来るか、場合によっては裁判所から訴状と呼出状がくるかもしれません。その時は、すぐに知らせて下さいね」
ということで、相手方の出方を待つことにしました。
1ヶ月くらい経ったころ、美智子さんから電話がありました。
「先生。裁判所から封筒が来ました。それと・・・」
「それと、どうしたのですか?」
「夫の健二がいなくなってしまったのです。心当たりには全て連絡したのですが、どこへ行ったのか全くわからなくて・・・」
私は、『しまった!』と心の中で叫びました。
手形を偽造した当の本人である健二さんがいなくなってしまった。
これでは、手形が偽造だという証拠がなくなったも同然だ。
手形訴訟で敗訴すれば、耕作さんの家・土地がすぐに強制執行(競売にかけること)されてしまう。
せめて、健二さんの陳述書を、あの時作っておけばよかったのに。
と、後悔の念と今後の不安が頭の中で渦巻きました。
手形に関する訴訟は、手形訴訟と呼ばれ、原則として、記載漏れなどのない手形さえ提出すれば証人尋問等を行うことなく簡易・迅速に判決が下されます。
判決で敗訴すると、相当額の担保を裁判所に預けなければ、通常訴訟に移行できません。
耕作さんは年金生活者で、現金はそれほど持っていません。
裁判所に預ける担保がないのです。
敗訴すれば、原告はさっさと、家、土地に対して強制執行をしてくるでしょう。
このように、手形を持っている側が圧倒的に有利になるのが手形訴訟なのです。
余談ですが、手形の発行者が会社である場合はもっと簡単です。
銀行経由で回した手形が2度不渡り(支払われないこと)になると、銀行取引停止処分となって、発行した会社はいわゆる倒産をしてしまうのです。
訴状に原告として記載されていたのは金本武(仮名です)という名前で、悪質な事件屋として、弁護士たちの間でも有名な人物でした。
ある日の昼食で、たまたま一緒になった正義感の強い先輩弁護士に、金本武から訴訟を起こされたと話すと、
「金本は裏側で悪さをやることが多いヤツだ。金本本人が自分の名前で訴訟を起こすのは珍しい。ここで、とことん金本を叩いておけ。そうすれば、今後、裏社会の人間は君を恐れるようになるぞ!」
と、熱っぽく励ましてくれました。
仕方がない。
裏技を仕掛けるしかないな。
と私は考え、裁判所に、答弁書と耕作さんの本人尋問申請書を提出しました。
裁判当日。
いつものように、同じ時間に指定された別事件の弁護士たちが、10人くらい法廷の傍聴席に座って自分の手持ち事件が呼ばれるのを待っていました。
裁判官が入廷し、書記官が最初に私の担当する事件番号を読み上げました。
私は、おもむろに被告席に座り、裁判官を見つめていました。
裁判官が、
「原告代理人、訴状陳述ですね。被告代理人も答弁書陳述ということで・・・被告側から本人尋問の申請が出ていますが、手形訴訟ですので却下します。判決期日は・・・」
と言った時、
「待って下さい。本件は手形が偽造されたとして被告は争っています。民事訴訟法352条3項で、例外的に本人尋問が許されるはずです」
と、私は裁判官に懸命に食らいつきました。
裁判官は、慌てて手元にあった六法全書を開き、
「ああ、これですね。わかりました。では本人尋問を認めます」
と、少し不愉快そうな顔をしながらも認めてくれました。
その時、傍聴席にいた弁護士たちから、「ほほ~う」という一種のどよめきが起こりました。
民事訴訟法352条3項の例外規定を持ち出すのは、よほど珍しいことだったのかも知れません。
それとも、知らなかった弁護士が多かったのかも知れません。
しかし、担保を積めない当方としては、手形訴訟で敗訴する訳には、断固としていかなかったのです。
原告本人尋問の期日。
「尋問までやるのですから、通常訴訟に移行するということでいいですね」
と、裁判官が告げ、原告代理人もそれに応じました。
私は耕作さんに尋ねました。
「あなたは、手形の現物を見たことがありますか?」
「・・・いいえ」
「手形が何色をしているかご存じですか?」
「・・・いいえ」
(原告から提出された手形のコピーを見せて)
「この署名は、あなたの字ですか?」
「いいえ・・・違います」
誘導尋問オンパレードでしたが、耕作さんが高齢で無口な老人だったからでしょうか、原告代理人から異議を申し立てられることはありませんでした。
原告代理人からの反対尋問がなかったことから、裁判官が、
「では、判決期日は○月△日午後1時とします」
と宣言しました。
「待って下さい。当方には被告の娘婿が手形を偽造したということを知っている証人が、司法書士を含めて何名かいます」
と、敗訴を恐れた私が食い下がると、
「さきほどの被告本人を見てて、十分わかりましたから」
と、裁判官は、暗に当方の勝訴をほのめかして法廷を去って行きました。
結果は、予想どおり当方の全面勝訴。
美智子さんが事務所に来てくれて
「おかげさまで、本当にホッとしました」
と言ってくれたのですが、心の底からホッとしたのは他ならぬ私自身でした。