30代半ばの男性と、その母親が事務所の椅子に座っていました。
「どうも、お待たせしました。離婚のご相談ということで伺っていますが・・・」
「ええ、私は、母一人、子一人で息子を大切に育ててきました。大切に育てたかいあって、素直ないい子に育ってくれたと自負しています。勉強にも真面目に取り組んで、現在は中川自動車(仮名ですが大企業です)の中堅として働いています。ニューヨーク駐在経験もございますの」
「それはそれは、とてもご立派な経歴ですね」
「ところが、嫁が問題でして・・・。結婚したときから、暴力を振るう、何でも息子にやらせる、気に入らないと怒鳴り散らす・・・などなど、一言でいうと鬼嫁なんです」
「それで、離婚を決意されたということですね。当事者で話し合いが付かない場合は、家庭裁判所で離婚調停を行わなければなりません」
「調停は終わりました。嫁が断固として息子と離婚しないの一点張りで、条件面での話し合いにまで至りませんでした」
事のいきさつはすべて母親が説明し、やや中性的とも思える優男(やさおこと)の息子は、黙って座っているだけでした。
「良夫さん(仮名)。あなたご自身は離婚についてはどうお考えなのですか?」
私が本人である息子に話を向けると、
「はい・・・会社のこともあって離婚はためらっていましたが・・・もう限界です」
彼は、聴き取るのが難しいくらいの、弱々しく小さな声で答えました。
「お子さんはいらっしゃるのですか?」
「はい・・・おります。普段の日は別居しているのですが・・・土日は子どもの顔を見るために・・・妻の住んでいる社宅に通っています」
毎週土日に通っているというのが気になりましたが、もはや訴訟しかありません。
詳しい事情を尋ねると、夫婦生活は以下のようなものだとのことでした。
妻とは見合い結婚。
特に気に入ったわけではないが、周囲の後押しで結婚に踏み切った。
結婚してから、妻は本性を現し、彼に毎日のように「ぐず!」「役立たず!」というような罵声を浴びせるようになった。
妻が妊娠・出産。
子どもができたら妻の性格も変わるだろうと期待したが、残念ながら彼に対する態度は悪化しこそすれ、軟化することはなかった。
今まで、少なくとも4、5回は、木製の椅子や傘で叩かれ、額の皮膚が割けて顔中血まみれになったこともあった。
母に頼んでアパートを借りて独り暮らしをしているが、毎週土日には、妻子のいる会社の社宅に通っている。
仕事の都合で行けない週があると、妻は彼の携帯電話に電話して、
「早く用事を終わらせて来んかい!本当にぐず男だな!」
と、平気で罵る。
(ちなみに、この言葉は留守電に入っていたため、良夫さんが録音して残していました。私も聴かせてもらいましたが、凄まじい口調に驚きました)
ということで、妻を相手に離婚訴訟を提起しました。
子どもの親権等は離婚後考えたいという良夫さんの希望で、請求は離婚一本に絞りました。
ほどなく妻側にも弁護士が付き、答弁書や準備書面のやりとりをしました。
妻側の主張としては、以下のようなものでした。
暴言や暴力など絶対に振るっていない。
夫は男性ホルモンが少ないのか、夜の夫婦生活はほどんどない。
子どもは体外受精で生まれた。
夫は何をやるにも要領を得ず、はっきり言って不出来な夫だ。
生活費を支払ってはくれるが、別居は妻に相談なく勝手に出ていった。
妻側に非はなく、離婚させられる筋合いはない。
離婚を前提とした和解には、絶対に応じない。
私は、妻側の主張を読んで、勝訴を確信しました。
いくら自分に非がないと主張していても、妻側の主張のほとんどは夫に対する非難だらけです。
夫だけでなく、妻も夫に対して大きな不満を持っているのなら、裁判所も離婚自体は認めるでしょうから。
楽勝、楽勝、と思いながら、夫と妻の本人尋問期日に臨みました。
初めて妻を見た私は、いささかびっくり!
凄い鬼嫁を想像していたのですが、センスのいい服装に身を包んだ、いかにも”か弱い”感じの女性だったからです。
外見に惑わされてなるものか!とばかりに、妻に対する反対尋問を行いました。
「あなたは、毎日のように良夫さんに『ぐず!』などと言っていたそうですね?」
「とんでもございません。そんなこと一度もありませんわ」
「(録音された声をダビングして提出した証拠を示し)この声はあなたの声ですよね」
「さあ、記憶にございませんわ」
う!・・・確かに(当時の)携帯電話の録音では声の認識ができない・・・。
「あなた以外に誰だというのですか?」
「それは、わたくしが聴きたいですわ」
「あなたは、お書きになった陳述書や弁護士さんに書いて貰った書面で、良夫さんをひどく非難していますよね。そんなに嫌いな良夫さんとどうして離婚したくないのですか?」
「わたくし、主人が嫌いだとは言っておりません。ただ、要領の悪いところが随所にございまして・・・それを指摘しただけですわ」
こんな感じで、反対尋問はまさに「暖簾に腕押し」。
これほどの敗北感と空実感を味わったのは、後にも先にもこの時だけでした。
彼女を見ていて私が感じたのは、彼女は、良夫さんを一種の隷(しもべ)として置いておきたかったのだ、離婚したら便利な隷がいなくなって困るから離婚しないのだ、ということでした。
それでも、非難し合っている夫婦を、裁判所が離婚させないということはないだろうと、私は楽観的に判決を待っていました。
ところが、下された判決は、
「原告の請求を棄却する」
当方全面敗訴でした。
冗談じゃない!とばかりに、即刻控訴しました。
控訴審では、裁判官が
「判決となると離婚はやむをえないでしょう。財産関係や親権についても、この場で決めてしまいませんか」
と、強く相手を説得してくれたため、子どもの親権は妻、夫は妻に相応の財産分与をする、ということでようやく離婚が成立しました。
鬼嫁から解放された良夫さん。
相も変わらぬ弱々しい声で「うれしいです」と言ってくれました。