井伏鱒二の短編を読んだ続きです。
引き続き、主に初期の短編が収録されている新潮文庫の『山椒魚』からです。
そろそろ飽きてきましたかね…?
派手さはないものの、どれも色々な解釈ができるので楽しく読めます~
井伏作品にはユーモアがあるとよく言われますが、そのユーモアの一つに、愚直で馬鹿正直な者(だいたい男)がおかす微笑ましい失態というのがあると感じます。
こういうタイプの人って最近はなかなか見ませんね~。少なくとも私の周りでは。
※今回書いたのは緑マーカー。
この中で個人的に面白いと思ったのは『岬の風景』『女人来訪』。
9. 夜ふけと梅の花
「もしもし、きみ! 僕の顔は、血だらけになってやしませんか!」
白い梅が咲く夜ふけ、「私」がふと梅の花を見た時、突然変な男が顔から血を流して目の前に立ちふさがって話しかけてくる。ただならぬ場面から始まるので、初っ端からひきつけられる。
「私」は、この変な男に半ば無理矢理にある厄介ごとを頼まれるのだが、結局それを満足に遂行できなかった。そのせいで、翌年の白い梅がさく夜ふけ、同じく梅を見た時に、その時の幻覚を見る羽目になる。
単に「私」の飲み過ぎによる妄想ともいうが、この変な男のせいで約一年間も男への恐怖のようなものを引きずっていたのだ。律儀で臆病な「私」の性格が見えてくる。
10. 女人来訪
結婚して約二週間後、「私」のもとに思いがけない手紙が届いた。
送り主は、昔結婚を申し込んだ(しかし断られた)女性…の関係者で「第三者としての一女性」と書かれていた。「第三者としての一女性」によれば、当時の彼女には諸々の理由でああいう結果になったが、実際は、8年もの間あなたのことが気にかかって、彼女は一途に思い悩んでいた、そして今回遂にあなたに会う決心をした、云々。
ずいぶん向こう勝手な話ではあるが、男からすればこういうのは悪い気はしないようだ。妻に見つかっては困るからと手紙を隠したりするが、一瞬にて見つかって読まれてしまうという…。
疑い深い女性の神経は、一般におそるべき冴えかたをして見せる場合がある。
などと、妻のことを表現する。そこから、妻の呼び名が名前「ユキコ」から「家庭争議の相手」と変わる…。
結局過去の彼女は、妻了承のもと「私」の元へ来訪するが、私が思うに、その女性は「第三者としての一女性」という手紙も自分で書いたのではないかと思う。
彼女は自分のことを「ひどく古風なんですのよ、あたくし」とか「あたくし、まだ図太くなれないんですけど、」なんて言っていたが、はたしてそうだろうか…🙄?
「私」は、妻以外の女性に好かれて、すっかりいい気分になり女性の健気さを信じているが、井伏さんの眼は見抜いているようだ。
ただ、「私」の気持ちを慮り、貶める部分は書かずに終わらせるのが優しさだったりするのかも。もし「私」が井伏さん自身を投影しているのなら、自分を好いてくれた女性の負の部分は、あえて書かないのかも。
私は書いちゃうけれど、自称古風な女は、言っていることと行動が全部逆なのだ。
(女性は好きな男性の前に出ると、わざと逆のことを言う面倒な時があるけど…。)
最後、「私」は、いい思い出として「もう逢うこともないであろう」と思っているけれど、女性にその気はないように見える。「下駄の台を送らせましょうかしら」と、なにげなく「私」に贈り物をしようと思っているから。次に繋げる口実を作っているようだ。他にも二人の会話のずれが気になった。
真相なんて考える必要はないけれど、読めば読むほど何かが浮かび上がってくるようで面白い作品。
11. 屋根の上のサワン
教科書に取り上げられる作品。
孤独な「わたし」が、怪我を負った「がん(命名サワン)」を助ける話。野生のがんと人間は住む世界が違うのは分かっているけれど、孤独を癒してくれるサワンを手放したくない気持ち…。
月の綺麗な夜に屋根の上に立ち、大声で鳴き叫ぶサワンの姿は何とも言えなくなるが、それを見る「わたし」の姿もまた哀しい。
ちょと違うけど、住む世界が違う人とか、あまりよく知らない人とかを好きになってしまうと「推し」みたいな感覚じゃないと自分が辛いだけだなと、ふと思ったりした🥹
12. 大空の鷲
大空を羽ばたく鷲の雄大さと、地上でせせこましく活動する人間の比較みたいのを感じた。どちらが良い悪いではないけれど。
御坂峠上空に現れる鷲を人々は「クロ」と呼び親しんでいる。天城山上空に現れる鷲を人々は「流星号」と呼ぶ。どちらも同じ鷲であり、別の場所ではまた別の名でよばれているのかもしれない。人々は立派な鷲を見たと自慢する。御坂峠の人々はクロを「天城山の流星号」なんて呼ばれることに腹を立てる。
上空を縹緲たる孤を描きながら羽ばたく鷲にとっては「クロ」だろうが「流星号」だろうが関係ないのだ。
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お読みいいただきありがとうございました
まだ続いちゃうかも・・・・・・