先日『アンナ・カレーニナ』を読んだので、記憶が新しいうちに、ウラジーミル・ナボコフの文学講義を読んで復習してみた。『アンナ・カレーニナ』については下巻に収録されているので、その部分だけ読んだ。
ナボコフは、ロシアで最大の散文小説家はトルストイだと述べている(プーシキンやレールモントフは別格として)。
順位をつけるなら、トルストイ→ゴーゴリ→チェーホフ→ツルゲーネフ、だと。
…あれ、ドストエフスキーがいない。どうやら、ナボコフ先生によるドストエフスキーの評価は低いようだ…。
順位をつけることに違和感があるけれど、ナボコフは文学は芸術だとハッキリ述べているので、トルストイの芸術(特に生と死の問題)を評価しているように思えるがどうなのだろうか。
ナボコフはロシアの人だったけれど、革命でベルリンへ亡命、その後はアメリカへ移住し大学で教鞭を執り、ロシア語と英語(フランス語も?)を巧みに使いこなした文筆家。
そういえば『ロリータ』は英語で書いているけど、『ロリータ』の原型となる『魅惑者』はロシア語で書いていた。
個人的には、すごくタフで緻密な(ところによりくどい)文章を書く人って感じがする。まだ全然読めていないけれど、できることなら全作品を読みたいと思っている作家。なんとな~くだけれど、谷崎潤一郎をくどく強固にし、さらにユーモラスにした感じがする。
以前『ボヴァリー夫人』を読んだ時にも『ナボコフの文学講義』を(ボヴァリー夫人の部分だけ)読んでみた。
しかし、結構ボリュームある講義であった上、自分自身の読みこなしが足りなかったから、ちょっとついて行けなかった気が。巻末には、試験さながらの問題もあって、講義を真面目に聴いて(読んで)いないと解けない難問だった。
今回の『アンナ・カレーニナ』は、わりときちんと読んだので、ついて行けるかな~、と思いながら手に取ってみた(問題の収録は無かった)。
まず、主人公の名前となる「アンナ・カレーニナ」だけれど、これを「カレーニン」でなく「カレーニナ」と訳することの滑稽さを語っていて、なんだか…初っ端から面倒くさいこと言ってるな… なんて思いつつページをめくった。
中身は結構な毒舌がある。厳しい。翻訳においては殊に厳しい。特にエドワード・ガーネットの翻訳(ロシア語→英語)に辛辣~。
登場人物(アンナ周囲の男達)について以下のように紹介している。
(ちなみに登場人物が(おそらく)すべて書かれてあった! ざっと読んだところ、『アンナ・カレーニナ』には登場人物が57人程いたらしい。『戦争と平和』なんて500人以上出て来るらしいし、それに比べればどーってことないのね…)
カレーニン(アンナの夫)
そっけない廉直な男、純理論的な徳目においては残酷な男、理想的な国家公務員、友人たちの儀道徳を喜んで受け入れる俗物的官僚、偽善者、暴君。…
他にも色々言われてたけど…その通りすぎて否定できない…。妻に浮気された側なのにあまり同情されない人…
ヴロンスキー(アンナが愛した男)
大して深みのある男ではないし、決して才能に恵まれた男でもないが、まあ時流に乗った男とでも言ったらいいか…
凡庸な精神のもちぬしである鈍感なヴロンスキー君。
オヴロンスキー(アンナの兄)
屈託のない役立たずの男
八方美人。情けない部分があって憎めない部分もあるけど結局は役立たず…その通りだ…。
このように、アンナの周囲の男の評価は手厳しい。しかし、言われてみればその通り。笑。
一方で、アンナの物語と同時進行で語られるリョーヴィンの物語の方においては、「トルストイ自身の日記のようにも見える」と述べているだけあって、少し神秘的な感じを漂わせている。
『アンナ・カレーニナ』は有名なので映画等で多くの人が知っているけれど、その話の主軸のほとんどがアンナとヴロンスキーの恋愛模様だったりする。先日映画も観たけれど、あまりにもそれでちょっと残念だった。
リョーヴィンにはほぼスポットが当てられていない気が。キティと結婚する前のリョーヴィンの物語はやはり退屈なのかも。
作者が生み出した恋人たちや裏切られた夫は生活のスピードが速く、独身のキティや独身のリョーヴィンを時間の遥か彼方に残してきてしまった。
これに加えてナボコフは、単独でないアンナ、カレーニン、ヴロンスキーは単独の者(リョーヴィン)よりも、生活の速度が速いと述べている。
ちなみに、現実ではどうだろうか。単身者の方が時間が遅くて恋人や配偶者がいる者のほうが時間が早いかな? その通りかもね~。
また、アンナは肉体的時間、リョーヴィンは精神的時間が描かれるという両者の差異も述べていた。
こう考えると、やっぱりアンナの物語の方がスピード感があって肉体的な官能さがあってドラマチック。精神的時間より肉体的時間の方が俗的に思うけれど、読者が夢中になるのはそういう話なのかなと思う。
アンナ×ヴロンスキーの繋がりの基礎は肉体的な愛である一方で、リョーヴィン×キティの繋がりは形而上的な愛の概念、自発的な自己犠牲、相互の敬愛。
ドストエフスキーの道徳的な(禁欲的な)考えに沿っているのかも。肉体的な愛は利己的であり罪深いと。
他にも、興味深いところが色々あった。
例えば、私がとりわけ印象に残ったリョーヴィンとキティの仲直りからのプロポーズ場面。
ナボコフ先生曰く「この場面はどうも少しやりすぎである」と、バサッと。。。
しかし、その後で「この二人のしぐさは魅力的であり、この場面の雰囲気は芸術の立場から見て真実である」とフォローされていたのでよかった。
まだあるけれど、逐一書いていると、ブログが書き終わらなさそうなのでこの辺でやめておこう。
ということで、今回の文学講義は前回の『ボヴァリー夫人』よりは理解できた気がする。
注釈が充実しているし、当時のロシアの習慣も書かれているので、これを読んだ後、『アンナ・カレーニナ』をもう一度読みたくなるかも。
ナボコフの文学講義を読破できるように、もっと色々な名作を読みたい~!