前回、四毒についての考えを述べました。
その後も“四毒抜き”の話題は尽きることなく拡がっています。
提唱している歯科医の先生はますますパワフルに雄弁に
発展させた持論を次々と発信されています。
実践する人が増え、分母が大きくなっていることもあるのか
その有効性を発信する人も増えているように思います。
当然のことながら賛否両論はあり
前回ご紹介した諸先生方のように
別の見解もさらにたくさん登場しています。
私の考えとしては、いま悩んでいる疾患や症状があって
この説に興味がある・納得できる人は
ぜひ一度トライしてみて欲しいと思います。
ただ、私自身、当初からモヤモヤしていることはあり
今回それについて書いてみます。
ちなみに“四毒抜き”の「毒」は
「そのものが毒である」ということではなく
「中毒性がある」という意味なのだそうです。
前回の投稿時は気づいてなかったので記しておきます。
*栄養的な見地から
短期的にはまず問題ないでしょう。
長期的にみた場合はどうでしょうか?
それらを摂取しないことによる健康被害はおそらくないし
それについての検証は不可能と思います。
“抜き”をした代わりに何をどう摂取したか
人によって違うでしょうから
一概に影響を論じることは将来的にもできないでしょう。
推測にすぎないのですが気になることとしては・・
・野菜を油なし(炒めない、揚げない、ドレッシングなし)で
たくさん食べられる人は少ないのでは?
食物繊維が減って腸内環境によくないのでは?
…これは生野菜の摂取を推奨するケイシー流ならではの
懸念かもしれません。
・何でもそうですが「摂りすぎ」は禁物です。
“四毒抜き”は玄米・雑穀に概ね否定的で白米を推奨しており
白米ならばどれだけ食べてもOKとされています。
また副食として動物性タンパク質、とくに肉類が
かなり多くなるのではないかと想像します。
これらが過剰摂取となった場合に生じるリスクというのも
長期的には無視できなくなってくるでしょう。
白米も動物性タンパク質も酸性食品に分類されます。
ケイシー的に見れば過剰になると身体が酸性化してしまい
何らかの不具合を起こすことになるかもしれません。
…ちょっと脱線してしまうのですが
主食として白米がよいのか玄米がよいのか、
さまざまな説があります。どちらも
「そもそも日本人は〇〇を食べていた(orいなかった)」
説に拠る場合が多く
糖質制限を強く主張する人は縄文時代まで遡りますが
江戸時代で留めておく場合もあり
みな自説に合致する時代を持ち出しているように思えます。
推測ですが、現代の日本人に近い過去の人々が
長いあいだ主食としていたのは、雑穀(アワ、ヒエ、キビなど)と麦飯(大麦)ではないでしょうか。
人口の大多数を占める庶民にとって白米はおそらく贅沢品。
年貢で取り上げられてしまったでしょう。
お餅(もち米)はハレの日だけの特別なありがたい食べもの。
玄米はどこの文化圏でも常食されていないようです。
これは味や栄養の問題というより、おそらく
精米したものよりも調理に必要な燃料が多くなってしまう
という理由が大きいと思われます。
私自身は白米+雑穀や分づき米を食べることが多いですが
消化吸収能力にもよるので
どれが絶対によいとは言い切れない気がします。
*強力な禁止がもたらすもの
“四毒抜き”は強力な禁止です。
「ほんの少しでも○○を食べてはいけない」
とても窮屈です。
そう感じるだけならまだいいですが
食べることに罪悪感、恐怖感を引き起こしかねません。
どうしても食べないわけにはいかない状況も
あると思うのですが、ものすごい葛藤が生じるでしょう。
そうしたネガティブな心持ちで食事をすると
その気持ちごと、身体に取り入れてしまうように思います。
そこから発展して「○○を食べると病気になる」
ここまで言ってしまうと、極論すれば“呪縛”になります。
強迫観念のようになってしまって
苦しくなる人もいるかもしれません。
「○○は身体に有害だ」という決めつけがあると
ほんとうに具合がわるくなることがあります。
プラシーボ効果は有名ですが
自分に害が生じるという懸念や思い込みがあると
通常は起こりえない、説明のつかない不具合を
生じることがあり、この現象を“ノーシーボ効果”と言います。
よく例に出されるのは
バラにアレルギーを持っていると信じる人は
バラと判断するとプラスチック製の造花でも
アレルギー症状を起こすことがあるという話。
そのくらい、その人の信じることが
現実の身体にあらわれるのです。
*症状を作っているのは自分自身
症状を形成するものとして
その人の潜在意識は何よりも重要だと考えます。
潜在意識には、その人が習慣として行っていること、
過去に経験したことすべて、トラウマや思い込み、
過去生のカルマなど、すべてが含まれます。
潜在意識が現実を形成するので
病気や症状も作られてしまう、もっと能動的に言えば
自分自身が作ることになるのです。
その視点に立つと、食事は身体内での反応を起こすための
ひとつのきっかけに過ぎないと考えることができます。
食事を徹底的に制限しようとする考え方の根幹には
症状を引き起こす要因のほとんどを
外的なものに求める傾向があるのではないでしょうか。
外的要因があっても
反応するかしないかはその人次第なのですが
排除しようとする意識が強くなるのと反比例して
内的なものに向ける意識は弱くなってしまうかもしれません。
アレルギー、電磁波や化学物質の過敏症、
ワクチンのシェディング、、、
これらも外部に原因を求めているという一面があると
私は考えています。
*「食事を変えなければ治らない」とも言い切れない
食事が大切なことに異論はありません。
すべての人に日々の食事の大切さを
認識してほしい、と思って診療しています。
でも食事をどうにかすることなく治るケースもあるのです。
症状の原因は複合的なものと考えられるので
なんらかの施術を受けたり、他の生活習慣や環境を変えたり、
心の持ち方を変えたりということで
改善に向かう場合もあるでしょう。
たとえ厳密な食事療法で改善が見られなかったとしても
落胆しないでほしいと思います。
食事以外の要因の占める割合が大きいのかもしれないし
その食事療法がその時期のその人に
合っていなかったのかもしれません。
食べたものがそのまますべて吸収されるわけではなく
消化吸収能力には個人差があります。
その観点からもすべての人に合う食事はないと考えますが
やってみないとわからないのが本当のところで
もどかしくもあります。
*波及する問題として、まったくの老婆心ですが気になること
現代はさまざまな領域で分断が危惧される時代です。
“四毒抜き”は強力で詳細な禁止事項として捉えられます。
あまりにも強い禁止は反発を招きます。
食事は毎日のことでその人の生き方とイコールでもあるので
頭ごなしによい/わるいで語られると
受け入れられない場合があります。
支持する人としない人とは相容れず
感情的な対立が生じてしまい、
ここにも分断が生じる気がして仕方ないのです。
また一方で、あまりにも詳細な指示は
同意する側の考える力を奪う可能性があります。
事細かに〇か×かチェックすることになると
心の余裕もなくなります。
もしすべての判断を他者にゆだねているとしたら
ある意味思考停止の状態でしょう。
*自分はどう生きるのか、自分にとって何が大切か
たぶんこれが人生でもっとも優先順位の高い問いだと思います。
食事という日々の営みも、ここが出発点であり
逆に言えば何気ないその一食にさえ
じつはその人の生き方が
あらわれてしまっているのかもしれません。
食事よりも優先順位の高いことがある場合もあるでしょう。
アスリートも、宇宙飛行士も、モデルさんも、ワーママも、
その環境での目的を果たすために食事を選択します。
友人が「食事は娯楽が8割」と書いていて
私は驚くとともにこの言葉についずいぶん考えました。
彼女にとって食事とは
何よりも他者との喜びを分かち合う時間なのです。
「同じ釜の飯を食う」という表現があるように
いっしょに食事をするということは
生存のための摂取以上の意味もあります。
自分にとって何が大切か
そこから選択していくしかないと思うのです。
“四毒抜き”について思うところを書きました。
お読みくださってありがとうございます。
これからも注視していきます。
“四毒抜き”で改善した人がその後どうするのか
とても興味深いです。
厳密な除去をずっと続けなれば意味がないとされているのは
本当にそうなのか。
そうであるなら改善した人はその生活を
もっと言えばその人生を選択するのか。
多少食べても大丈夫な身体になっていくのか。
科学も医学も新しい知見によって日々更新されていきます。
現在支持されている説も
この先変わっていく可能性があります。
そういうものだからです。
ご自分やご家族について
そのときベストと思われる選択をしていくしかないでしょう。
そしてその結果を潔く引き受けるしかないでしょう。
ふと思ったのは
もしかすると、あんまり、深刻にならないこと、
かもしれません。
医者の言うことではないかもしれませんけど。
私たちみんな、光と影が交錯する、苦しくて可笑しくて
複雑で悩ましい現代日本という場で生きています。
笑っても泣いてもたかだか数年~数十年の今生
時代の空気も含めて
ぜんぶ味わって精いっぱい生きることに尽きるかなー・・と。
↑
四毒的にもケイシー的にもいちばんダメなやつ(^^;)






