かなり状態の良い古本でした。

犯人はこの子です。

咄嗟に買い直そうかな?とも思いました。

が、問題なく読めるし、同じ本を読み返すことはほぼないし、自慢気に書斎に積み上げた本を眺める趣味も虚しいね。

形あるものの定めを受け入れて、このセンセーショナルな作品の中身だけを楽しもう。

やっと手にしたショーペンハウアー

なかなか書店では手にはいらない。


ニーチェ、ヘルマン・ヘッセへとつながるものがある。


読み始めは古典的表現に苦戦し、途中で読了を断念するかも?と悪い予感がしたけれど、中盤以降はかなり惹きつけられるものがあって、とても良かった。


やっぱり、自分を理解し愛せるのは自分だけなんだろうなという、諦観ではないけれども、安心させてくれるものを深く感じた。


これを悲観主義と見るのは違うと思う。


自分の中に存在する素晴らしさを探してみたいという、希望を感じさせてくれた。


読んで良かったと思う。


そして次に読み始めたのは。


三島由紀夫の『仮面の告白』

これは間違いなく面白い!

福岡県議会の話題をみれば「なんとバカバカしい」と誰でも感じるのではないだろうか?


議員という権力と名声。

僕には全く魅力を感じないものに思えるが、その経験をしていないので感覚がわかないだけで、近づけば欲望が出てくるものなのだろうか?


今、ショーペンハウアーの『幸福論』を読んでいるが、人の財産と考えられるものとして、①自分自身の特性と在り方 ②所有する財産 ③他人に与える印象(名誉・名声・良い印象)があり、①だけが本当に幸福の要素となり得るものと言っている。


僕が今晩も1時間くらい庭先で得体の知れない欠乏感と向き合っている時に感じたこと。

一体何と戦って何を得ようとしているのか?そして戦って何を失うのを防ごうとしているのか?


愛されたい・・・


今迄それが戦って得られただろうか?戦って失わなわずにすんだだろうか?

自分には何もできなかったし、何もできないのだろう・・・


「愛される」ということは本当に存在するのだろうか?

それは他人の心の中に自分の願望がある事を想像できるかどうか?ということだけでしかないのではないか?


だったとすると、名誉とか名声とかを求めることと同じなのかもしれない。


自分で自分を愛するという在り方だけが本当に存在することであり、自分や他人も幻ならば、そこに愛があることを感じることだけが真実ではないだろうか。